8 夜空に咲く花



「茜、今日、夜出かけるから、晩メシ、少し早めにしよう。」
「…え?卓、どこか出かけるの?夜出かけるって…誰かと飲みにでも行くの?
あ、会社の人と…?」
「違うよ。おまえとだよ。」
「…あたしと?ドコ行くの?」
「今は内緒」
「えー、何、それぇ…」
茜がいくら追求しても、卓は笑ってはぐらかすだけで、
どこに行くのか、結局夕方まで教えてもらえなかった。
何を聞いてもはぐらかす卓に、茜はちょっと拗ねて、
卓が慌てて機嫌を取る羽目になったのだが、それでも卓は
とうとう最後まで口を割らなかったのだ…。

夕方、茜が夕食の支度をしていると、卓がキッチンに入って来た。
「…卓?」茜は思わず包丁を置いて身構えた。
料理している時、卓が後ろから急に抱き付いてきて、
危うく指を切りそうになったことが何回かあったからだ。
一度、茜がすごい剣幕で怒ってからは、さすがに最近はしなくなったが。
「そんな、身構えなくても、この間約束したからもうやらないって。」
あからさまに警戒している茜の様子に卓が吹き出した。
茜もそこでようやく警戒を解いた。
「何?」
「準備、俺がやっとくから、シャワー浴びて来いよ。」
「…卓?」茜の目がまたちょっと警戒の色を浮かべる。
卓がシャワーとか、お風呂と言い出す時は、あとに待っているのは…。
「バカ、違うって。俺、する事ないし、だったら俺がメシの準備して、
その間におまえシャワー浴びておけば、それだけ出かける準備早くできるだろ?」
「…うん…。」
「いつもみたいに一緒に入りたいって言うなら、それでもいいけど?」
笑いながらそう言うと、茜は頬を赤くして
「…!じゃ、じゃあ、シャワー浴びてくるね!」と言うと、
慌ててバスタオルなどを用意してシャワーを浴びる準備をすると、
さっとバスルームに駆け込んだ。
卓はその様子を笑いながら見ていたが、シャワーの水音が聞こえてきたのを確認して、
茜が途中までしていた夕食の支度の続きに取り掛かった。

茜がシャワーを浴びて、髪を乾かして出てくると、もう夕食の準備は出来ていた。
「お、ちょうどいいタイミングだったな。」
「あ、ありがとう、ごめんね、ほとんど卓にやらせちゃって」
「いいっていいって。ほら、食べよう。」
「…うん、いただきます。」

食事の後、卓も手早くシャワーを浴びてバスルームから出てきた。
茜はちょうど何を着て行こうかと考えて、
クロゼットから何着かの服を出している所だった。
「…あ、茜、ちょっと待った」
「え?」
卓はクロゼットの奥から、丁寧に包まれた物を出して茜に渡した。
「開けてみて」
茜は幾重にも包まれたそれを少しずつ開けていった。
中身を見た瞬間、茜の手が止まった。
「卓、これ…!」茜は卓を見上げた。
包みの中に入っていたのは、濃紺の地に薄紫色の朝顔の柄のゆかただった。
「ゆかただ…卓、これ…?」
「…新品じゃなくて悪いけど、今日…これ着てくれないかなと思って」
「新品じゃないって…じゃあ…これ…?」
茜ははっとした。
幾重にも幾重にも大切に包まれたゆかた…。
卓がこんなにも大切にとっておくそのゆかたの持ち主は…。
ひとりしか思い当たらなかった。
「…卓」
「今日、花火大会があるんだってさ。花火にはやっぱりゆかただろ?」
「卓…このゆかた…」
「茜に、着てもらいたいなって思ったんだ」
「卓、ちょっと待って。これって…このゆかたって…卓の…!」
「…うん、母さんの形見」
薄々見当はついていたが、あまりにあっさりと答えた卓に、茜が驚いた。
「ダメだよ、こんな大切なもの…あたしなんかが…」
「いいんだ。ずっとしまいっ放しでいるよりも、着てもらった方がきっと…母さんも喜ぶよ」
「だけど…」
「…俺さ、母さんがそのゆかた着た所、写真でしか見たことなくてさ…。
前に少し話したと思うけど…」
「…うん…」



卓の母は、病弱な人だったと茜は聞いていた。
生まれつき心臓に疾患を抱えていて、成人するまで生きられるかどうか…と、
医師に宣告を受けていた。
それでも何とか、何度か発作を起こし、入退院を繰り返しながらも、
二十歳の誕生日を迎えることが出来たと言う…。
そんな彼女が、恋をして、卓を身ごもった時、周囲は子供を産むことに大反対したと言う。
妊娠中は発作が起きても、治療に薬を殆ど使えないし、
出産ともなれば心臓に多大な負担がかかる…。
周囲にしてみれば当然の反応だったろう…下手をすれば、生命の危機に関わる事だから。
それでも彼女は周囲の反対を押し切り、ひとりの男の子を出産したのだ…。
…その男の子が、卓だった…。

出産後の彼女は、周囲が懸念したとおり、体力が激減した。
…冬は小さな風邪ひとつさえ命取りになる程に…。
夏の暑さも、彼女の体力を容赦なく消耗させた…。
そして、彼女は…。
出産から2年後に、この世を去った…。
彼女の両親が、娘が二十歳になった記念に仕立てたゆかたは、
たった一度しか着られなかった…。

卓が成人した時、彼女の母親…卓にとっては母方の祖母にあたる…女性が、
卓のもとを訪れた。
殆ど交渉のなかった彼女の訪問に戸惑う卓に、
祖母は、一通の手紙と、丁寧に包まれたそれを託して行った。
手紙は…卓の母が書いたものだった…。
自分が死んだら、このゆかたは卓が成人した時、彼に形見として渡して欲しいと…。
自分は一度しか着ることが叶わなかったそのゆかたを、
いつか卓が出逢う、大切な人が着てくれたら…と願って…。

それが、今ふたりの前にあるゆかただった。



「亡くなった人のもの着るの、抵抗あるかもしれないけど…」
「違うよ…!そうじゃなくて…本当に、あたしが、着てもいいのかなって…」
そう言った茜は、今にも泣き出しそうな表情をしていた。
声も微かに震えている。
卓の母の形見だと言うだけでも袖を通すのが躊躇われるほどなのに、
このゆかたに託されたその深い想いを聞かされて…。
茜は泣きそうになった…。
「…俺に、茜以外に大切な人なんて、他に誰がいるって言うんだ?」
その言葉で、茜は本格的に泣き出してしまった。
「あーあ、これから出かけるのに…泣くなよ…」
「…だって…だって…」
卓は茜の顔を上向かせて、キスをした。
不意打ちのキスに驚いて、茜の涙は止まった。
「あんまり泣くと、目腫れて、出かけられなくなるぞ?」
「…う、ん…」
「…茜、ゆかた着れるのか?」
「…うん、高校の時、家庭科でゆかた縫った時に、着付けも教わったから、
多分大丈夫だと、思う…。」
「そのゆかたは…?」
「持ってきてない。だいいち、縫い目ガタガタだし、着れるような代物じゃないもの」
「…手伝ってやろうか?」
茜のキャミソールの裾を引っ張って、ちょっと笑いながら、卓が言う。
「い、いい、大丈夫、一人で着れるから!」
「そうか?どうしても無理そうなら手貸すからな?」
「お気持ちだけありがたく頂戴します」
先に着替えた卓をリビングに向かわせ、茜は髪をアップにしてから、
半ばうろ覚えの記憶を引っ張り出して総動員しながら、着付けを始めた…。

そして、しばらくして、寝室のドアが開いた。
「おっ、着替えた…か…」
出てきた茜を見て、卓は思わず息を呑んだ。
濃紺の地のゆかたは、茜の色白の肌にこれ以上ないほどに良く似合っていた。
深い赤の帯も、ゆかたの色とよく調和していた。
髪をアップに結い上げ、すっきりとまとめているために、
これまたはっとするほど白くきれいなうなじが見えていた。
しばらく黙ったまま自分を見ている卓に、茜は微かに不安になった。
似合ってないのだろうか…?それとも、着付けの仕方が変だったのだろうか…?
「あの…やっぱり…変…?」
おずおずと尋ねる茜に、卓が我に返った。
「…すげぇ似合ってるよ」卓の声が、少し掠れていた。
「…本当…?本当に変じゃない…?」
「ああ…これならどこに出しても、誰に見せても似合ってるって言うよ」
「…ありがとう」
「茜、こっちおいで」
茜を鏡の前に手招きして、卓はシャツの胸ポケットから出したものを
茜の結い上げられた髪に、バランスを見ながらさした。
「…なに?…かんざし…?」
鏡で見てみると、帯の色とよく似た赤く丸い石のかんざしが飾られていた。
「卓…これ、どうしたの…?」
「ん?売ってるの見かけて、このゆかたに似合いそうだなと思って。
帯の色とも合ってたし」
「…た、高かったんじゃ、ない?」
「茜はそういうこと気にし過ぎだよ。目ん玉飛び出るような金額じゃあるまいし、
心配するなって」
「…あ、ありがとう…」
「よし、じゃあそろそろ行こうか」
「うん」



「やっぱ混んでるなぁ…」
花火大会の会場に近づくにつれて、人が多くなってきていて、
とてもじゃないが落ち着いて見れそうな雰囲気じゃなかった。
「…よし、あそこに行くか。…茜、足、痛くないか?」
履きなれない下駄で、足が痛むのではと、茜を気遣い、卓が聞いた。
「ううん、平気だよ」
「そうか?じゃあ、もう少し歩くことになるけど、痛くなったらちゃんと言えよ?」
「うん、ありがとう。」

はぐれないように手を繋いで、ふたりはまた歩き出した。

「卓、ここって…」茜は、卓に連れられてきた場所を見て、唖然とした。
「ん?会社」
「それは分かるわよ。いくらなんでも」
花火大会の会場から10分ほどのところに卓の会社があることは、
茜も知っていたが…。
卓は通用口を開けて、守衛室に向かった。
「こんばんは」
「あれっ!?氷室さん、どうしたの?かわいい子連れて…ははぁ、花火見物だろう?」
守衛のおじさんが、笑いながら卓を見た。
「会場めちゃめちゃ混んでて…」
「ここらはあまり高いビルないからきっとよく見えるでしょう。
方角的にもばっちりの筈だし」
「…まいったな、バレバレだったか」
「はい、これ鍵。あとで忘れずに返して下さいよ」
「すいませんね、あ、これ、休憩の時にでもどうぞ」
卓は、近くのコンビニで買ったお茶や軽食類を差し出した。
「気つかわなくても良かったのに」
「口止め料も込みって事で」
「分かってますよ。」

「…裏取引成立、だろ?」
「…呆れた…」茜が笑いながら言った。つられて卓も笑う。
エレベーターで4階に上り、守衛さんが渡してくれた鍵でドアを開けて中に入った。
暗い室内に茜の下駄の音がからんころん、とやけに大きく響いた。
「ここが卓の仕事してる所?」
「そうだよ。茜が会社に来たの、初めてだな。」
「うん…でも何だか…」
「ん?何?」
「不法侵入してる気分…」茜の言葉に卓が笑った。
「不法侵入か…守衛さん公認だし、心配ないって」
「黙認の間違いだと思う…」
「…ま、そうとも言うな。…電気つけられないけど、大丈夫だよな?」
「…え?…っきゃ…!」
「うわっ、危ない…!」
着慣れないゆかたと、暗くて足元が良く見えないのとで、
よろけた茜を卓が咄嗟に腕を伸ばして支えた。
ふわりと甘い香りがして、卓の目に、無防備な茜のうなじが映った。
「ご、ごめ…」
体勢を立て直して、顔を上げた茜の言葉が、途中で切れた。
卓の唇が、茜の唇に触れたからだ。
一度離れたが、またすぐに、今度はさっきよりも深く唇をふさがれた。
”…どうしてだろう?”
いつもよりも、ドキドキするような感覚に茜は戸惑っていた。
キスなんて、いつも、数え切れないほどしているのに。
卓に体を預けて、何度もされるキスにされるままになっていた茜だったが…。
「…!た、卓、だめ…」
ゆかたの合わせ目から滑り込もうとする卓の手を、茜は慌てて止めた。
「なんで?」
「だって…着崩れるし…それにここでは…」
「じゃあ、ここじゃなかったらいいんだ?」
「…!もう、卓…」抗議しようとした茜の言葉が再び途切れた。
暗い室内が一瞬明るく照らされたからだ。
「お、始まったな」
夜空に、大輪の花のように見事な花火が上がる。
ほんの一瞬の、あでやかで、それでいて儚い花。
ふたりは窓のそばに近寄り、次々に打ち上げられる花火を見上げた。
「綺麗だねぇ…」茜が感嘆の声を上げる。
「…そうだな」
目を輝かせて花火に見入る茜を見て、卓も嬉しそうに笑う。
ふたりはどちらからともなく手を繋いで、
夜空に描かれる一夜限りの光の饗宴を見つめていた。



家に戻ってきて、卓は着替えようとした茜の手を止めた。
「卓…?」
「もうちょっとだけ、それ着ていて」
「…うん」
卓は、茜をソファーに座らせ、冷蔵庫から缶ビールと、もう一本綺麗なイラストの
描かれた缶を取り出して中身をグラスに注いで茜に渡した。
「ありがとう」
受け取った茜はジュースだと思ってそのまま一口飲んだのだが…。
「…?なんか、苦い…?」味は桃の味で口当たりも甘いのだが、
その中に、僅かに苦いというか、飲みなれない味が感じられた。
「…卓、これもしかして、お酒…?」
「…ま、そんなにアルコール強くないから大丈夫だろ。たまには付き合ってよ。」
「もう…」茜は卓をちょっと睨む真似をしたが、すぐに笑い出した。
卓も笑いながら茜の隣に座って、缶ビールを開けて飲んだ。
卓が茜にすすめた桃のお酒は、そんなにアルコール分は強くないのだが、
お酒を飲み慣れない茜はすぐに酔いがまわり始めたらしく、隣に座る卓に
もたれかかるように体を預けた。
「茜?…もう酔ったのか?」グラスの中身は、まだ半分も減っていない。
「んー…なんか、体がふわふわして、いい気持ちー…」
茜が卓の肩のあたりに顔を寄せる。そのまま、甘えるように擦り寄って来る。
普段は甘えてくることのあまりない茜が、無防備に甘える様子を見せたので
卓はちょっと驚いたが、悪い気持ちはしなかった。
お酒のせいで、ほんのり上気した頬と、少しとろんとした目をした茜は、
本人にはそんな意識はないのだが、表情や甘える仕草のひとつひとつが卓を誘う。
「卓…?」
卓は、茜の顎を少し持ち上げて、自分の方を向かせて、キスをした。
そのまま、茜を抱き寄せ、膝の上に乗せた。

卓の手が簡単な結びの帯を解いた。ほどけた帯を床に落とす。
茜は卓に体を預けたまま、卓のするままに任せていた。
そこでもう一度、卓は茜に軽くキスをした。
卓は、最後の細い腰紐を解き、茜のゆかたのあわせを大きく開き、
首筋から鎖骨の辺りにキスをしながら、手を下の方に少しずつ滑らせていく。
卓の指が、ショーツの中に忍び込んできて…。
「…卓…」茜は卓にしがみつくように、体を密着させる。
体に力が入らないのは、アルコールのせいなのか、卓の愛撫のせいなのか…。
「…ベッド行くか?」卓が、茜の耳元で小さな声で言った。
  茜は卓にくっついたまま頷いた。
卓は茜を軽々と抱き上げて、寝室に連れて行った…。

ベッドに茜を下ろし、卓は羽織るだけになっていた茜のゆかたを脱がせて、
髪にさしていたかんざしも、危ないから取って、サイドテーブルの上に置いた。
結い上げていた髪のピンとゴムをほどいた。
癖のないまっすぐな髪が、ぱさりと肩に落ちてきた。
シャンプーの甘い香りの残る髪を優しく梳くようにしながら、キスをして、
茜をベッドに横たえるようにして、愛撫の続きをはじめる。
「…ん…卓…」
茜は最初はくすぐったそうに笑っていたが、
やがて、それは、甘い喘ぎに変わっていった…。



茜は、自分を見ている一人の女性に気づいた。
そのひとは、さっきまで茜が着ていた朝顔の柄のゆかたを着ていた。
「あなたは…?」
問いかけた茜に、そのひとは優しく微笑んで、頭を下げた。
そして…。
『…ありがとう』と言って、すぅっと姿を消した。

茜は、そこで目を覚ました。
「…夢…?」
「…茜…?…どうした?」
茜を抱きしめたまま眠っていた卓が、茜の呟きに目を覚ました。
「…卓…今日って…何日だっけ…?」
「は…?」
怪訝な顔をしながらも、卓が答えた日にちは…。
「そっか…そうなんだ…」
「なんだよ?一人で納得して…」
「…なんでもない、起こしちゃって、ごめんね」
「…??」
”あれは、きっと、卓のお母さんだったんだ…。”
今はちょうどお盆の真っ只中だ。…こちら側に帰ってきているのかも…。
「ねぇ、卓」
「ん?」
「…いつか、卓のお母さんの、お墓参りに連れて行ってね」
「…ああ、そうだな。一緒に行こうな。」
「うん」
「…まだ夜中じゃん、ほら、寝よう」
「…うん、おやすみ、卓」
「おやすみ」
卓に抱きしめられて、茜はもう一度眠りについた。



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