6 古傷
”どうしよう…暇になっちゃったな…。”
今日は、一学期最後の登校日。明日から夏休み。
今日は土曜日で、卓は本当は休みの日だけど、
月曜日までに仕上げたい書類があるからと、半日だけ休日出勤している。
一緒にお昼を食べてから帰ろうと約束していた子が、
帰り際彼氏から連絡が入って、あたしとの約束はキャンセルになった。
それはいいの。彼氏と会うの、久しぶりだって言ってたし。
食事はいつでも行けるからね。
すぐに帰るのも何となくつまらなくて、
駅前にあるショッピングモールで、特にあてはないけど、
雑貨屋さんとか、CDショップをぶらぶら見て歩いて、
時間を潰してから帰ることにした。
その時、携帯にメールの着信音。この着メロは、卓からのメールだ。
『仕事終わった。今どこ?もう飯食った?』
あたしは、今いる場所を返信した。
『今、駅前のショッピングモール。お昼はまだだよ。』
すると、すぐに返事が返ってきた。
『あと15分くらいで着く。一緒に飯食ってから帰ろう。スタバの前で待ってて。』
OKの返事を送信して、あたしは本屋に寄って料理関係の雑誌を数冊買ってから
卓との待ち合わせ場所に向かった。
スタバでエスプレッソフラペチーノのトールサイズを買って、
少し行儀が悪いけど、お店の外で立ち飲み。
中にいると、卓が来ても見えないから。
うだるような暑さの中、冷たいドリンクを飲みながら
卓が来るのを待っていたあたしに、声をかけて来た男の人がいた。
「…もしかして、今野?今野茜だろ?」
振り返ったあたしは…相手の顔を見て、言葉が出なかった。
「…やっぱりそうだ。元気だった?」
体が震え出す。
よくもいけしゃあしゃあと声なんか掛けられるものだ…。
「…今野、今こっちにいるの?俺、大学こっちに進学したんだよ。
…どうしたの?…あ、俺のこと、分からない?佐々木翼だよ?」
忘れる訳なんてない。何年たったって、忘れられるはずがない。
あたしは無言で彼から顔を背けた。こんな奴相手に話すことなんか、ない。
「…あ。」彼も、あたしのその態度で、思い出したようだった。
頭をかきながら、気まずそうに切り出した。
「あの時は…悪かったよ…。でも、あんなに、今野が傷つくとは思わなくて…。
ほんの、冗談のつもりだったんだ…。」
その言葉に、あたしの中の何かが切れた。
「…冗談のつもりで、男3人がかりで…あんなことしようとしたんだ?」
周りを憚って、声のトーンをぎりぎりまで落とす。
「…だから、あれは悪かった。ごめん。」
その時だった。
「…茜?」卓が走ってきた。ナンパに引っかかってると思ったのだろう。
あたしは卓に向かって駆け寄り、卓の後ろに回りこんだ。
卓のYシャツの裾をぎゅっと、強く掴んだ。
「…茜…!?」
尋常じゃない茜の怯えかたに卓が訝る。
自分のシャツを掴んだ手が、震えている。
「その人…中学の時の……っ…」
その一言だけで、卓は瞬時に理解した。
目の前のこの男が、茜の古傷の元凶なのだと。
卓の目が、すっ…と、鋭くなる。一歩、翼の方に踏み出す。
翼が、じりっ、と後ずさる
「…今後、二度とこいつの前にそのツラ見せるな。これは、警告だからな。」
そこで、いったん言葉を切る。もう、翼は固まって声も出ない様子だ。
「…もしも、警告を無視して茜に近づいてみろよ?
…その顔、元通りに修復出来ない位に、破壊してやるからな。
あの時の仲間にも言っておけ。」
卓は翼にだけ聞こえる低い声で、そう言った。
口元は笑うようにつりあがっているが、目は鋭く翼を見据えている。
踏んでいる場数の違いが窺える、堂に入った脅し方だった。
警告を無視すれば、本気でやられそうだった。
いや、確実にやられる。
翼はぶんぶんと首を縦に振って、へなへなとその場に座り込んだ。
「茜、行くぞ。」
そう言って、振り返った卓は、もう、いつも通りの卓に戻っていた。
怯えたままの茜の手を取って、卓はその場を離れた。
「ごめんなさい、卓。」
「何謝ってるんだ。おまえが謝らなきゃならない事なんて、何ひとつないだろ。
胸張って、堂々としてろ。」
繋いだ手に、少し力を入れる。
茜の手は、まだ震えて、夏なのに信じられないほど冷たかった。
「…だって…。」そこで緊張が解けたのか、茜の目から涙が溢れ出す。
茜が涙声になったのに気が付いた卓が、ショッピングモールの地下に続く
階段に茜を連れて行った。
ここは殆ど人が通らない。泣いても、人目につかないだろう。
階段の踊り場で、茜にハンカチを渡して、そのまま抱きしめた。
万が一、人が通ったとしても、
どこかのカップルがいちゃついてる…くらいにしか思われないだろう。
時々、茜の、押し殺そうとしてもおさえ切れない嗚咽が聞こえる。
卓は、茜を強く、強く抱きしめた。
やがて、茜は卓から体を離した。
「…ごめん、もう大丈夫。…落ち着いた。」
「すぐそこに化粧室あったから、顔、洗って来いよ。ここで待ってるから。」
「…うん。」茜は階段を下りて、化粧室に行った。
化粧室には、誰もいなかった。
手早く顔を水で洗い、ハンカチで水気を拭った。
鏡の中の自分を見る。目が真っ赤に充血して、少し瞼が腫れていた。
”みっともない…。”
…もう、平気になったと、思っていた。
なのに。顔を見ただけで、震えが来た。
中学3年の夏休み直前。
部活を終えて、帰ろうとした自分に、翼が声をかけて来た。
もう帰るから、と茜が言っても、彼は強引に茜を教室に引っ張り込んだ。
そこには、翼とよくつるんでいた仲間二人もいて。
逃げようとする茜を、3人がかりで捕まえて、組み伏せようとした。
髪の毛を掴まれて引き摺り倒されて、手足を押さえつけられて、制服を破かれた。
口の中に、破かれたブラウスを詰め込まれて、足を開かされた。
声も出せず、抵抗も許されず、もうダメだと、思った。
屈辱感と絶望感が、茜を襲った。
ナンデ コンナコトサレナキャ イケナイノ…!?
その時、茜の頭に浮かんだのは、その思いだけだった…。
結論から言うと、その時は未遂に終わった。
見回りしていた教師が踏み込んで来て、茜を開放してくれた。
だが、更なる屈辱と絶望感が茜を苛んだのは、夏休みが終わった後だった…
翼の親は、PTAの会長だった。
自分の息子の起こした不祥事を金とコネで揉み消したのだ。
事件は公になることはなかった。
だが、噂は広がる。尾鰭背鰭がつき、歪曲された噂が、
休みの間にクラスメートに伝わっていたのだ…。
『今野茜が、PTA会長の息子を誘惑しておいて、
レイプされそうになったと訴えた。』と。
始業式、登校して来た茜を、クラスメートたちは嘲りと好奇の目で見ていた。
その中に、当事者の翼達も混じっていた。自分たちは無実だと、勝ち誇るように。
親の金とコネでのうのうと守られて、本当の無実だった茜に
謂れのない濡れ衣を着せて一方的に悪者にした。
引き取られて、世話になっていた養父母も、噂を鵜呑みにして、
茜の言い分など、聞く耳も持たなかった…。
汚いものでも見るように、茜を見たクラスメートや、教師、養父母のあの目。
一生忘れられないだろうと思った…。
中学を卒業するまで、茜は孤立したまま、一言も喋ることもなく卒業したのだ。
高校は、誰も知っている人のいない高校を選び、進学した…。
孤立した中学時代を、それでもなんとか耐え抜いたのは、
卓がいてくれたからだった。
誰も信じてくれなかったことを、たったひとり、卓だけが信じてくれた。
『おまえは悪くない、悪くないと思うなら、胸張って、堂々としてろ。』
そう言って、茜の居場所を作ってくれた…。
卓がいなかったら、とっくに自分はどこか壊れていたかも知れない…。
『誰も信じられないなら、信じなくてもいい。俺だけ信じてろ。
…誰が何て言ったって、俺だけはおまえの傍にいるから。』
その言葉だけは、信じてもいいと、無条件に信じられた。
”卓は、その約束を、本当に果たしてくれた…。”
だから、今、茜は卓と一緒に暮らしていられる。
もう一度、鏡の中の自分を見る。
まだ少し瞼の腫れは残っているけど。でも殆ど目立たなくなった。
”もう、大丈夫。”
古傷のかさぶたを無理やり剥がされて、ちょっと血が出たけれど。
そんな傷、また塞いでしまえばいい。
塞いで、忘れて、いつか跡も残らなくなる位になればいい。
卓が自分を信じてくれる限り、こんな傷は、何でもないんだ。
茜は自分に言い聞かせて、化粧室を後にした。
「…お待たせしました。」
「…おう、待った待った。」
「ごめ……」
「ストップ。もう『ごめんなさい』は、言うな。」
「…うん。」茜は少し引きつってはいたが、笑顔で答えた。
「…よし、飯食いに行くぞ。」
「…うん!」
差し出された卓の手に、自分の手を重ねて、歩き出した。
「…ねぇ、卓。」
「ん?」
「…さっき持っててくれた、ドリンクは?」
「ああ、あれ。溶けかけてたから飲んじまった。」
「…えーっ!?あたしのエスプレッソフラペチーノ!!」
「…あー、分かった分かった!新しいの買ってやるから!」
「本当?じゃあ、ヘーゼルナッツシロップと、ホイップつけてね。 あ、あとシナモンかけてね。」
「…はいはい。」