11 過去との対峙(中編)



「……夢か…」
そこで茜は目を覚ました。目のあたりに、何か熱い感触。
触れてみると、それは、涙だった。
夢を見ながら泣いていたのだ…。
卓と暮らし始め、一緒に眠るようになって、あの頃の夢を見ることはなくなっていた。
なのに、今になって、またこの夢を見てしまうなんて…。
茜はパジャマの袖で流れる涙を拭った。
”泣き声を出しちゃいけない…卓が、起きちゃう…。” そう茜が思った、その時…。
不意に、後ろから腕が伸びて来て、茜の体を抱きしめた。
「…卓」
「…一人で泣くなよ」
「…ごめん…起こしちゃったね…」
「おまえが泣いてるのに、一人でのうのうと寝ていられる訳がないだろ?」
卓のその言葉に、茜はまた泣きたくなる。
「ごめんね…ごめんなさい…卓」
卓は、茜を自分の方に向かせた。
「どうして謝るんだ?茜が謝ることなんて、何ひとつないのに」
「…でも…」
「…泣きたいなら泣いてもいいから、ひとりで泣くな」
「…卓…っ!」
茜は卓にしがみついて、堰を切ったように声をあげて泣いた。
突然の実の母親と名乗る人の出現で困惑しているのと、
それに連動して過去の傷まで再び抉られた茜の気持ちを思うと、卓はやり切れなかった。
自分と暮らすようになって、茜は夜眠れなくなることも、
いやな夢にうなされて目を覚ますこともなくなったと、言ってくれた事がある。
だが、一人で泣いていた茜を見ると…たとえ実の母親でも許せないと思ってしまう。
卓にも、母親の記憶はない。人から伝え聞いた記憶しか…。
だがそれは、母の病気による死と言う、どうにもならない理由があった。
だが、茜は違う…。茜は、守ってくれる筈の存在から、切り捨てられたのだ…。
過去にどんな事情があったのかまでは、卓には知りようがない。
それでも、実の母親が、子供を置き去りにして、姿を消す…。
そんなことがあっていいものか…例え理由があっても許されない事だと、思う…。
まして、茜がそのためにどれだけ傷ついてきたか…自分は知っている。
途中数年の空白はあるものの、茜をずっと見てきた。
周囲の人間に容赦なく傷つけられ、素直に泣くことさえ出来ないほど追い詰められ、
最初は自分まで拒絶しようとした…。
茜が初めて自分に笑ってくれた時、どんなに嬉しかったか…。
離れなくてはならなくなった時、どんなにつらかったか…。
数年の時を経て、再会が叶った時どれだけ嬉しかったか…。

一生癒えないだろう心の傷を抱え、茜はそれでも前向きに生きようとしている…。
その茜が、また傷つけられようとしている…。
茜を傷つける者がいるなら、それがどんな相手だとしても、守るのは自分の役目だ。
例えそれが、茜の実の親だとしても。
「…茜、明日、俺も一緒に行くから」
「…卓」
「ダメだって言っても行くから」
「でも、卓、明日仕事あるのに…」
「そんなもの、どうにでもなる。俺には、こっちの方が大事だから」
「…お願い、そばにいて。…卓に甘え過ぎてるって、分かってる…でもそばにいて」
「…当たり前だろ、茜がいやだ、離せって言っても離さないよ」
卓は震える茜を強く抱きしめて、泣きやむまでずっと、髪や背中を優しく撫で続けて、
時々キスをしながら、茜を落ち着かせた。
空が白む頃、茜はようやく少し、卓の腕の中で眠った…。



茜は、卓と一緒に、待ち合わせの場所へと向かっていた。
待ち合わせの場所に近づくにつれて、茜はだんだん無口になっていった。
卓は茜の手を強く握りしめた。
卓を見上げると、大丈夫と言うように、優しく茜を見て頷く。
茜は、少しほっとしたように少し引きつってはいたけれど、微かに笑った。
二人は、待ち合わせのシティホテルのロビーに到着した。

…その女性に最初に気付いたのは、卓だった。
その女性は…驚くほど茜に似ていた。
…いや、実際には茜がその女性に似ている、と言うのが正しいのだが…。
茜がそのまま歳を重ねれば、きっとこんな感じになるだろうと、卓は思った。
茜も、気付いたようだった。
その女性を見つめたまま、微動だにしなかった。
「…茜」
卓は、茜の背中を軽くたたいて、促した。
その女性も、二人に気付き、座っていたソファから立ち上がった。
「…日野静さん、ですね…?」卓が、確認するように尋ねた。
…実の母親の名前を、こんな風に、他人事のように知るなんて…。
「…ええ、そうです」彼女ははっきりと答えた。
そして、茜の方を見た。
「あなたが…」
「…今野茜です」
茜は、そう答えた。…そうとしか、答えられなかった。
静は、そんな茜を見て、悲しそうな表情をしたが、思い直したように、二人に言った。
「ここでお話をするのも何ですから、どうぞ、お部屋の方へ…」
卓と茜は、一瞬迷ったが、こんな人の多いところで落ち着いて話せないと思い、
静の後についてエレベーターに乗り込んだ…。



部屋に通されて、ソファに座り、茜は改めて彼女を見た。
”…本当に、似てる…。”
恨むべき相手に、自分がよく似ている皮肉さに、茜は思わず笑い出したくなる。
「…何から、話せばいいんでしょうね…」
「…何故、あなたは16年前、茜を置き去りにしたんですか?」
卓がストレートに核心を突いて質問した。
「…そうですね、まずそこからお話しないといけませんね」
茜はこわばった表情のまま、彼女が話し出すのを待った。
「…16年前、私は海外赴任中の夫の帰りを待ちながら、茜を育てていました。
その夫が、赴任先で流行病に罹って亡くなり……元々夫の実家とはそりが合わなかった私は、
夫の葬儀が終わった途端、義母に籍を抜かされ、そのまま家を出されました」
「…茜も一緒に…ですか…?」
いくらそりが合わないと言ったって、孫にあたる茜まで一緒に追い出すものだろうか…?
「跡継ぎの息子以外の子は、あの家には必要なかったんです…」
「…息子…茜の兄さん…ですか?」
「ええ、そうです。二つ年上の…」
「……」
「まだ幼い茜を抱えて、どうしたらいいのか途方にくれていました。
私の実家には帰れなかった…反対を押し切って結婚して、絶縁状態でしたから。
…そんな状態で、茜を抱えていては働くことさえままならず…
いっそ、茜を連れて死のうかと考えました」
その言葉の重い響きに、茜は背筋が冷たくなった。
「死のうと考えて、その前に茜に何か食べさせようとデパートに連れて行って…。
でも、幼い茜を道連れにすることがどうしても出来なくなって…。
茜に欲しがっていたぬいぐるみを買って、眠った茜をそのまま置いて…私は逃げたんです」
「…もういい!やめて…!もう聞きたくない…!!」
「茜…」
「あたしが今日ここに来たのは、あなたとは暮らす気はないって伝えに来ただけです。
どんな事情があったって、子供を捨てるような人とは、暮らしたくありません…!
…それだけ、伝えに来たんです…!」
茜はそう言うと立ち上がって部屋を出た。
「…茜!」
卓は、茜を追いかけようとしたが、その前に、静に言って置きたい事があって留まった。
「…日野さん、何故、今になって、茜と一緒に暮らしたいと思ったんですか…?」
「今、私は再婚して…夫がいます。その人は子供の出来ない人で…。
私も年齢的にももう…それに数年前に病気で子宮を取ってしまって、もう子供は産めません。
養子でもいいから子供が欲しいと夫が言い出して…私は茜の事を夫に打ち明けたんです」
「……」
「夫はもちろん驚きました。…でも、そういう事情ならこの機会に名乗り出て、
今までの償いも込めて、一緒に暮らしてはどうか?と言い出したんです」
「…あまりに…都合がよすぎるとは…思わなかったんですか…?」
卓は怒りが込み上げてきた。
確かに、この女性の置かれた境遇は気の毒な部分もある。
だが、犬や猫の子じゃあるまいし、一度は捨てた娘を、16年も経って突然名乗り出て
今度は引き取りたいと言い出す…。
それは茜の気持ちを考えていない、あまりに身勝手なエゴに思えてならなかった。
「…あなたに捨てられた茜が…どれだけつらい思いをして来たか、あなたは全然分かってない…!」
卓は、自分が出会ってから見て来た茜の事を、施設の所長さんから聞いた話を、全て話した。
捨てられて、喋れなくなるほどのショックを受けた事…。
学校に行くようになって、親がいないことで馬鹿にされ、苛められて、
だんだん自分の殻に篭るようになっていったこと…人を拒絶するようになったこと…。
今野夫妻に引き取られた後も、茜に付きまとう過去の噂と、その事が引き起こした事件…。
すべてを洗いざらい話した。
「…他の子供が最初から持っていた…無条件に親から与えられて来た幸せを、
茜は最初から持たずに生きることを強いられた…あなたのせいで。
それなのに、今さら一緒に暮らそうとしても、うまく行かないと思います。」
「……」
「…今野夫妻は、茜の意思に任せると仰ってました。俺も同じ意見です。
茜の意思は、さっき茜自身が言った通りだと思います。
俺に言えるのはこれだけです。申し訳ありませんが、茜を説得する気は俺にはありません。
…茜が俺を必要だと言ってくれるように、俺にも茜が必要で…失いたくないですから。
…すみません、これで失礼します」
卓は彼女の返答を待たずに、そのまま部屋を出た。



ドアの横に、茜がうずくまるようにして泣いていた。
「…茜」卓は茜を立たせると、涙で濡れた顔をハンカチで拭いてやった。
「卓…」
「…泣くなよ、茜」
「ごめんね…」
「謝らなくていいから」
「ごめ…」
「だから、謝るなって…次謝ったら罰金な」
冗談めかして言うと、ほんの少しだけ茜の表情が和らいだ。
卓は、茜を抱き寄せて言った。
「…笑ってろよ、その方がずっといいよ」
茜が泣くのは、見たくない…見ている自分の方が、どうしていいか分からなくなる…。
…自分のそばで、いつでも笑顔でいて欲しい。
出逢った頃のような、あんな悲しそうな目は、あんな傷ついた表情は
…もう二度と見たくないと思った。
「…帰ろう、茜」
「……うん」
帰りの電車の中、茜は一言も喋らず、流れる景色を黙って見ていた。
視界には映っていても、本当にきちんと見ているわけではなかったけれど。
卓は、混雑する電車の扉の横で、茜の立つスペースを何とか確保しながら、空いた片手で
茜の手をただ強く握りしめていた…。




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