11 過去との対峙(前編)
”…あ、まただ…。”
茜は立ち止まって、振り返り、辺りを見回した。
「茜?どうしたの?」
友人の杏子が急に立ち止まった茜を怪訝そうな顔で見た。
茜は杏子の声も耳に入らない様子できょろきょろと辺りを見回していた。
「…ねぇ、茜?」
茜はそこでようやく杏子が呼んでいるのに気がついた。
「あ…ごめんね、杏子」
「どうしたの?最近よくそうやって周り気にしてるみたいだけど?」
「んー…ちょっと、ね…」
「そろそろ帰ろう?」
「う、ん…」
茜は、まだ辺りを気にしながらも、杏子と一緒に歩き出した。
最近、どうも誰かに見られている気がする。
学校の行き帰り、バイト先で、駅で…。
誰かの視線を感じるのだ。
最初は気のせいだと思って、気にも留めなかった。
だが、日を追うごとに、その視線が気になりだした。
辺りを見回しても、それらしき視線の主は見当たらない。
でも、ふと気づくと、また見られている…。
気になる…と、言うより、気味が悪い。
こんなふうに、こそこそと見られる心当たりなど悪いけれど、全く思い当たらない。
…『今は』。 そんな気味の悪さに耐えられず、茜は卓に話すことにした…。
「誰かに見られてる…?」
その日仕事から帰ってきた卓に茜はそれまでの経緯を打ち明けた。
茜は卓が、気のせいだと笑いとばしたら…と思ったが、卓は真剣に聞いていた。
幼い頃から常に人の目を気にして暮らしてきた茜が言うことだ。
ただの気のせいだとは思えなかった。
「…何か…こわくて…」
「心当たりは、ないんだな?」
「考えてみたけど、そんな心当たり、ないよ…」
「茜、なるべく一人きりにならないように、気をつけた方がいい。」
「……うん…」
それでも不安そうな茜を、卓は抱きしめた。
「…大丈夫だよ、茜」
「…ん…」
数日後…卓の会社に、一本の電話が入った。
「氷室さん、2番に電話です」
「あ、すみません」卓は受話器を持ち上げた。
「お電話かわりました、氷室です」
電話の向こうの人物が告げた名前に、卓はしばらく答えることが出来なかった。
「あ…すみません。…ご無沙汰しています。はい…はい……え…?
それは…本当なんですか…!?」
電話の向こうの相手は、相当怒っているらしく、だんだん声が大きくなり、
卓は思わず受話器を耳から少し離した。 「…それで、その人は何て…?」
返って来た答えに、卓は思わず声を上げていた。
「…そんな!今になってそんな都合のいいことを…!」
オフィス内の視線が集中していることに気づき、卓は声のトーンを落とした。
「…一応…俺から茜に話してはみますが…その後、どうするかは、茜次第です。
…俺からは何とも…はい…はい、分かりました。…それじゃ、失礼します」
電話を切ったあと、卓は終業の時刻がくるまで、ずっと厳しい表情をしていた…。
帰ってきた卓を、茜は夕食の支度をしながらいつもと変わらない笑顔で迎えた。
「おかえりなさい、卓」
「…ただいま」その声のトーンに、茜が顔を上げた。
「卓?…何かあったの?」
「…茜、ちょっと、いいか?大事な話があるんだ」
卓の口調に、茜の表情から笑みが消えた。
茜はガスレンジの火を止めて、リビングに向かう卓の後について行った…。
「…大事な話って?」
「今日、今野さんから、会社に電話があったんだ」
「…お父さんが?…どうして?」
「昨日…今野さんの所に、お客さんが来たそうだ」
「…?」茜には話の展開が全く読めなかった。
「…その人は…茜の…母親だって名乗ったそうだよ」
「……」
茜は、しばらくの間、その言葉を頭の中で反芻していた。
”ハハオヤ…?ははおや…って…”
「茜、おまえの…本当のお母さんが、現れたんだよ。今野さんが施設に確認を取ったら、
確かにその人は、おまえの母親だって…裏付け、取れたそうだよ」
卓は努めて冷静に、事実を淡々と告げた。
「…ここ最近、おまえが感じていたって言う視線も、その人だって…」
「…卓…それで…その人は…?何て言ってるの…?」
茜にも、ようやく事の次第が飲み込めてきたらしい。
卓は、冷静に言葉を選びながら茜に告げた。
「…今、大阪で暮らしているらしい。…茜と、一緒に暮らしたいって、言ってるそうだよ」
「…今さら…あたしを、引き取りたいだなんて…!ムシが良すぎるわよ!」
「…茜!」
「あたしを…捨ててったくせに!今になってそんなことを言うなんて!!」
「茜、落ち着けよ!…茜!」
卓は暴れる茜を腕の中に抱きしめて押さえつけて、大きな声で茜を呼んで、おとなしくさせた。
「…今野さんは…茜の判断に任せるって言っていたよ。…俺も、同じ意見だ」
「……その人…今、どこにいるの…?あたし、会って、断ってくる…っ!」
「…今からじゃもう遅いって。…それに、少し、冷静になってからの方がいい…」
「……」
「今の茜じゃ、感情的になりすぎていて、話にならないと思うよ」
卓の言うとおりだった。こんな気持ちがまとまらないまま会ったって、
きっと、自分は感情に任せてその人を罵ってしまうだろう…。
「…ごめん、卓。…もう、大丈夫だから…」
「連絡先、聞いてあるから、会う気になったら言って」
「…卓、明日、会うって、その人に伝えてくれる…?」
「いいのか?」
「…大丈夫、一緒に暮らす気なんてないって事と、もう二度と会いたくないって…言うだけだから」
「……そうか」
「…うん」
卓はそれ以上は何も言わず、電話をかけ、相手に茜の意向を伝えた。
その夜、茜はなかなか寝付けずにいた。
眠ろうとすれば、ごく浅い眠りの中で、夢を見る…。
茜にとっては、もう一生思い出したくない、悲しく、つらい過去の夢を。
茜は、3歳の時に、デパートに置き去りにされていたと言う。
買ってもらったばかりらしい、うさぎのぬいぐるみを抱えて
休憩所のベンチでひとり眠っている所を
巡回中の警備員に保護されたのだと言う。
すぐに店内放送が流されたが、保護者は現れなかったと言う…。
結局、閉店まで待って、引き取る者がいなかったため、警察に通報された。
テレビや新聞などのマスコミでも取り上げられたと言うのだが、
それでも保護者の名乗りをあげる者は、とうとう現れなかった…。
結局、茜はその後、親のいない子供達が預けられる施設に入れられる事になったのだ…。
…その頃の記憶は茜にはない。
15年経った今でも、その頃の事は空白のように欠落している。
覚えていたのは、自分の名前と3歳と言う年齢だけ。
そして…大人たちが茜を見て『困ったものだ』と繰り返す姿だけだった…。
施設に送られて、茜は毎日のように泣き続け周囲の人を困らせたと言う。
そして、泣いて泣いて、泣きつづけて…
もう、誰も迎えに来てくれないと子供心に悟ったのと同時に
茜は喋ることができなくなった。…精神的なショックによる、失語症だった。
それでも、周囲の人間や医者の懸命な治療や努力で、茜は小学校に就学するころには、
再び喋ることができるようになった…。
だが、言葉は取り戻せても、傷ついた心までは取り戻せなかった…。
クラスメートは親のいない茜を馬鹿にし、事あるごとにからかった。
何かあれば、親がいないせいにされる…。
次第に茜は無口で、内向的な少女になっていった…。
必要以外のことは喋らない、笑顔さえ見せない…。
そんな茜のことを、周囲は扱いにくい存在としてますます敬遠していく…。
そして、周囲のそんな対応に、茜はますます心を閉ざしていく。
そんな悪循環だった。
卓と出会ったのは、茜が小学校の5年生になった頃だった。
クラスメートから陰湿な苛めを受けていた茜を通りかかった卓が助けてくれたのだった。
そんな卓に対しても、猜疑心と不信感の塊になっていた茜はお礼さえ言えず、
苛めを受けた際にできた傷を手当てしようとした卓に触れられるのをひどく怖がった。
周囲の人すべてが敵のように思えていた茜には、卓の優しさが信じられなかった。
それでも何とか傷の手当てをした後、卓は茜を施設まで送って行った。
近くに住んでいた卓は、その施設がどういう場所か知っていた。
それで、茜の置かれている環境をおぼろげながら理解したのだった…。
茜の他人を拒絶し、触れられることすら嫌がる程怯える態度がなぜなのかも…。
卓は、それまで茜が出会ってきた、接してきたどの人とも違っていた。
どれだけ茜がかたくなに優しくされるのを拒絶しても、無視しても、時には怒っても、
呆れもせず、諦めようともせず、茜に会いに来た。
茜は、卓は今までの人達とは少し違うのかも知れない…と、思い始めていた。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、茜は卓に心を開き始めた。
この人は、自分の話をきちんと聞いてくれる。
この人は、自分を傷つけない。
人を信じることを、茜に教えてくれたのは卓だった…。
茜が、6年生になって、半年ほど経った頃…。
茜に、養子縁組の話が持ち上がった。
今までにも、そう言う話はあった。
だが、茜の人を信じられない性格が災いして、いつも途中で白紙になっていたのだ。
でも今回は、とんとん拍子に話がまとまりかけていた。
だが…茜は素直には喜べなかった…。
今野夫妻には、何度か会ってみて、とても優しい、いい人達だと思った。
でも…養女になると言う事は…卓と離れ離れになってしまうのだと言う事に、茜は気づいた。
その頃、茜にとってすでに卓は、必要不可欠な存在だった。
その気持ちを、何と呼ぶのか、茜はまだ知らなかった。
だが、知らないながらも、茜は卓のそばにいたいと、強く思った。
自分を誰よりも理解してくれる人のそばから、離れるのがいやだった…。
茜は、無意識のうちに卓の所へと走っていた。
「茜?どうしたんだ!?こんな時間に…」
「どうしよう…!あたし…施設を出なきゃならなくなっちゃう…!」
「…え?」
ひどく混乱している茜を落ち着かせながら、卓は茜が養女に望まれていることを聞き出した。
「………」
長いこと、卓は言葉が出なかった。
茜が、ここからいなくなる…。
だが、まだ中学生の自分に、何が出来ると言うのだろう…?
養女の話は、茜にとっては願ってもない話だろう。
これからの事を思えば、庇護してくれる人が現れたと言うのは幸運なことなのだろうと思う。
だが、茜がいなくなる…。
その事実は、卓に少なからずショックを与えた。
自分が、もっと大人だったら…茜を連れて行けるのに。
誰も知らない、二人だけでいられる場所に。
茜がいなくなると知って、卓は、茜に対するこの気持ちが何なのか、自覚した。
はじめは、妹みたいな存在だと、思っていた。
だけど、この気持ちは…身内へ向けるものとは、明らかに違う…。
「…行きたくない…!養女に行ったら…もう、会えなくなっちゃう…!」
茜の言葉に、卓ははっとした。
…もしかして茜も、自分と同じ気持ちでいてくれているのだろうか…?
…いや、そこまで深いものではかもしれない…まだ。
だけど…もし…もしも、茜の中に、自分と離れがたいと思ってくれる気持ちがあるのなら…。
「…茜、もう、これで二度と会えなくなる訳じゃないよ」
「……?」
「もし、少し先、茜が…今より少し大きくなって、それでも、僕に会いたいと思ってくれるなら…
迎えに行くよ?」
「…うそ。…きっとあたしのことなんてすぐに忘れちゃうよ…」
「忘れないよ。茜、僕が今まで茜にうそをついたことなんてあった?」
「……ない」
「そうだろ?だから、この約束も、うそじゃない。」
「……」
「今までで、一番大切な約束だから、必ず守るよ」
「…本当に?」
「…今の僕には、茜を守ってやれる力はまだないけど、これからその力をつける。
そして、それから茜を迎えに行くから。だからそれまでは…。
茜は親になってくれる人達の所で、僕が迎えに行くのを、待っていてくれるか?」
「信じて待ってて、いいの?」
「もちろん」
「…待ってるから。ずっと、待ってるから」
”一緒にいたいと思っていても、今の僕たちじゃ、幼すぎて、誰も認めてくれない。
だったら、認められるまで、力を蓄えなくてはいけない…。”
茜が今野夫妻に引き取られる日…。
朝早く、卓は茜を呼び出した。
茜は昨夜、一睡もできなかったらしく、赤い目をしていた。
「…茜、これ、持って行って」
そう言って、卓が取り出したのは…。銀色の指輪だった。
昨日の夜、茜を施設まで送ってから、急いで繁華街まで走った。
綺麗で高価な指輪は、今の自分には手が届かない。
それでも、ありったけの手持ちのお金をはたいて、露店でシルバーの指輪をふたつ買った…。
「…指輪?」
受け取った指輪を、茜は指にはめてみた。
「これ、ぶかぶかだよ…?」
「それは、僕の指のサイズだからね」
「茜のはこっちだよ」
そう言って、卓はトレーナーの襟から皮の紐を取り出した。
紐の先には、小さな指輪がつけられていた。
「…?」
「僕が、迎えに行く日まで、茜がその指輪を預かっていて。それが、約束の印だよ」
「…あ…」
「その時に、交換しよう」
茜の手から指輪を受け取り、自分のと同じように皮の紐に通すと、卓はそれを茜の首にかけた。
「…なくすなよ?」
「…なくさないもん…絶対なくさない」
見上げた茜の額に…卓はそっとキスをした。
「…この指輪がちょうどいいサイズになる頃までに、絶対、迎えに行くからな」
「…うん、うん…」
卓との約束の印の指輪を持って、茜は施設を10年近く暮らした施設を後にした…。