10 不安



”なんだろう…?ここ何日か、ずっとだるくて、胃がむかむかする…。”
昨日もバイト先で気分が悪くなって、少し早く上がらせてもらった。
帰ってきて熱をはかってみたが、平熱だった。
ここ最近、特別講習とバイトの忙しさが重なったので、
少し疲れたせいだろうと思い、取りあえず早めに眠ったのだが…。
今朝起きてみても、胃のむかつきは収まらず、体もだるかった…。
卓は茜を気遣って、今日は学校もバイトも休むようにと勧めたのだが
茜は頑として行くと言い張り、卓にも止められなかった。

今、調理師学校で受けている特別講習は、
茜がパティシエの道を志すきっかけになった人が講師として招かれていて、
意地でも欠席はしたくない大事な講習だった…。
そして、バイトも、今日はシフトの都合上、どうしても休む訳には行かなかった。
なんとか講習もバイトも終えて、帰って来てすぐ、茜はふらふらと倒れこむように
ソファに横になった。
そのままうとうとと眠りかけたのだが、すぐに、夕食の支度をしなければ…と思い
茜はだるい体を無理やりに起こした。
起き上がった瞬間…。
「…っ!」
突然、胃の奥から吐き気がこみ上げて来て、茜は洗面所に走った。
「う…ぐ…っ!」
胃の内容物を吐き尽くし、胃液まで吐いて、ようやく吐き気がおさまった。
茜はそのまま少しの間、洗面台に手をついて、息が整うまで待った。
”本当に…何なんだろう…?”
「…病院…行かなくちゃダメかな…?」
”…あれ…?ちょっと…待てよ…?”
茜はふと、あることを思い出した。
体のだるさも忘れて、リビングに置きっぱなしのままのバッグの中から
手帳を取り出した。
先月のカレンダーのページをめくる。
”ない…。” そこには、今、茜が一番あって欲しい印は…なかった。
女性なら月に一度、必ずある『あれ』の来た印が…。
「……うそ…?これって、もしかして…!?」
”もしかして…あたし……妊娠…したの…!?”
まさか、そんな事はないだろうと、思いたかった。
だが、今の茜の体調不良の症状はどれも、当てはまるものばかりで…。
”忙しくて、気が付かなかった…。”
「…どう…しよう…?」
茜はしばらく手帳を見たまま、動けなかった…。
”落ち着いて…まだそうと決まった訳じゃないんだし。……でも…。”
だが、今まで遅れたことなどほとんどなかったのだ。
多少の遅れは時々あったが、一ヶ月以上来なかったことなど、
今までなかったのに…。
それに…卓は初めての時から今に至るまで、避妊はきちんと気遣ってしてくれていた…。
それなのに…。
もちろん、100パーセント完璧な避妊方法はないと言う事は、茜も知っている。
”もしも…もしも、本当に妊娠していたとしたら…?”
本当に妊娠していたとしたら…産みたいと思う。…だけど…。
そのためには、学校を辞めなくてなならない…。
茜の通っている調理師専門学校は二年間の課程で調理師免許を取得する。
今はその一年目だ。
もしも、妊娠が本当なら、来年は学校に通えなくなる…。
”…と、とにかく…本当に妊娠しているのかどうか、確かめなくちゃ…。”



翌日…。
茜はドラッグストアのある売り場の前で長いこと迷っていた。
そのコーナーに置いてある物は…妊娠検査薬だった。
病院に行く前に、自分で確認しようと思ったのだ…。
一つ取って、さっさとレジに持って行けばいいだけなのに。
さっきから、手を伸ばしかけては、誰かが来る度にその手を引っ込めて、
また手を伸ばしかけては引っ込め…。
”ダメだ…やっぱり買えないよ…!”
結局、茜は細々とした雑貨だけ買って、かんじんの検査薬は買えずに店を出た…。

”やっぱり…病院で診てもらうより他に方法ないのかな…?”
茜は夕食の支度をしながらずっと考え込んでいた。
”でも…検査薬さえ買えなかったのに…産婦人科なんて…行けるんだろうか…?”
病院の中にすら、入れなさそうな気がする…。
その時、玄関のドアが開く音が聞こえて来た。
「ただいま」卓が帰って来たのだ。
「…あ、おかえりなさい、卓。お疲れさま」
「…ああ…おい、茜!…味噌汁吹いてる…!」
「え?…きゃあぁ!!」慌ててガスの火を止める。
その時、味噌汁の鍋から立ち上る匂いに、茜はまた胃がむかつくような感じがして
  慌てて洗面所に駆け込んだ。
「茜!?…大丈夫か!?」後からついてきた卓が茜の背中をさする。
「ごめ…ん、もう大丈夫」
「とにかく…胃薬飲んで、少し休めよ…」
「あ…大丈夫だから、薬は…」
「え?…もしかして、今まで薬、飲んでなかった…のか?」
「……」
「ダメだろ、具合悪いのに薬も飲まないで、治るものも治らないだろうが」
「…や、だって…!」言いかけて、茜ははっとして口を噤んだ。
「茜…?どうしたんだよ、何か様子が…変だぞ?」
茜は卓に言って良いものかどうか、一瞬躊躇した。
「…茜…?」
だが、隠しておく事で、卓の不信感をいたずらに募らせても仕方がない…。
茜は意を決して口を開いた。
「…ないの…」
「…え?」
「先月からずっと…あれが…来ないの…」
さすがにあからさまには言いかねて、やっとそれだけ言った。
「…来ないって…あれ…って…あれだよな?」
「…あたし…確かめようと思って…検査薬買おうと思ったけど買えなくて…」
「…茜、落ち着いて、取りあえずこっち来て座って」
卓は茜をリビングに連れて行って、ソファに座らせた。
「…ちょっと待ってな」
そう言うと卓はキッチンに行き、少しして、マグカップを持って戻って来た。
「これ飲んで落ち着こうな」
そういって卓が渡してくれたマグカップの中身は、程よく温められたミルクだった。
勧められるままにひと口、火傷をしないように注意しながら飲んだ。
「…おいしい…」
温かくて、ほんのり甘くて、茜の気持ちを落ち着かせてくれた。
「茜、明日、病院行こうな。…俺も一緒に行くから」
「…でも、卓、明日仕事なのに…」
「こっちの方が大事だろ?午前中だけ休み取るから、ちゃんと確かめに行こうな?」
「……うん」



翌日…茜は朝一番で卓とともに産婦人科に行った。
「…卓、そこの喫茶店で、待ってて」
「茜…」
「待合室で待つの…気まずいでしょう…?」
「だけど…一人で、大丈夫か?」
「…うん、大丈夫…」
「じゃあ…待ってるから」
「うん」

検査を終えて、結果が出るまでの間、茜は落ち着かない気持ちを押さえて、待っていた…。
「今野さん、今野茜さん、診察室へどうぞ」
茜は不安な気持ちを抑え、立ち上がって診察室へと入って行った…。

「…え…?」
「検査の結果、妊娠はしていませんでしたよ」
カルテを見ながら女性の先生がそう告げた。
「…じゃあ…生理が来なかったのは…?」
「おそらく月経不順でしょう。…忙しかったりなどで生活のリズムが崩れたりすると、
月経の周期も狂ったりする事もあるんですよ。吐き気は、軽い胃炎だと思います。
あとで、内科で診てもらった方がいいですね……今野さん?」
「…あ…」
茜は自分が泣いているのに気が付いた。
「す…すみません…っ、あたし…妊娠してないって分かったら…なんだか…ほっとして…
妊娠してたら、産みたいって、思ってたはずなのに…出来てないって分かったら…あたし…!」
「…妊娠していないと分かってほっとしてるのは、まだ今はその時期じゃないからなのよ?
産みたいと思うだけでは、ダメなの」
「先生…」
「産みたいと思う気持ちだけでは、母親にはなれないわ。子供を産んで育てるには、
それなりの自覚と責任と環境が必要だと思うの。あなたはまだ、若すぎるのかも知れないわ。
身体的にも、精神的にも…ね」
「……」
「いつかもう少し先、あなたが成熟した女性になって、赤ちゃんを産む心構えも環境も整って
本当に子供が欲しいと望んで、ここに来てくれるのを待っていますよ?」
先生の言葉は茜の心に素直に響いた。
「…はい…」



茜は病院を出て、卓の待つ喫茶店に向かおうとした。
病院の門を出た所で、卓が待っていた。
「…卓」
「どうだった…?」
「…妊娠、してなかった…」
「……そうか…」
「…ごめんなさい、1人で騒いでパニクって…」
「いや…俺の方こそ、茜に謝らないといけないな」
「…卓?」
「今、出来てないって分かって、正直、ちょっとほっとした…」
「ううん、あたしも…同じ事思ったの…」
茜は、さっき先生に言われた事を、卓に打ち明けた。
「…自覚と責任と環境か…」
「…うん…あたし、妊娠したかも知れないって思った時、嬉しいって気持ちより先に
どうしようって…まず思っちゃったの…そう言うところが…先生の言うとおり
まだ自覚とか心構えができてないってことなんだなぁ…って…」
「…茜だけじゃなくて、俺も一緒に、自覚と責任と心構え作って行かないとな」
「卓…」
「…じゃあ…俺、ここから仕事に向かうけど…一人で大丈夫か?」
「うん、大丈夫。これから内科でちょっと診てもらってから帰るから」
「ああ、そうだな。ちゃんと診てもらって来いよ?」
「…うん」
卓を見送ってから、茜は歩き出した。
”…こんな時、あたしに本当のお母さんがいてくれたら…。少しは落ち着いて対処することが
できたのだろうか…?”
茜はそう考えて…思い直して首を横に振った。
”…やめよう。考えたって、どうしようもない事なんだから…。”
茜は気を取り直して再び歩き出した…。
その後ろ姿を、そっと見ている者の存在に、気付くことなく…。





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