9 天の岩戸
「…なぁ、茜、頼むからここ開けて出て来いよ!」
「……」
閉ざされたドアの向こうからは、沈黙しか返ってこない。
もう、卓が帰って来てから1時間ほど、この状態が続いていた。
「…茜!」
「……」
語気を強めて呼んでみても、やっぱり返事は返って来ない。
卓はため息をついた。
”さて、どうしたものか…。”
茜が篭城して、だんまりを決め込んでいる理由は、分かっているのだが…。
説明しようにも、当の茜が聞く耳を持たないのでは、弁解のしようもない。
”まいったな…。”
「おい、茜!」
「…ほっといて!!」
中から返って来たのは、泣いているような声だった…。
「…茜…」
”…少し、落ち着くまで待つか…。”
拗ねたり怒ったりで茜が鍵のかかる寝室に立て篭もるのは、時々あることだが、
今回はいつものそれとはちょっと様子が違う。
ドアの鍵を無理やりこじ開けてでも茜を部屋から引っ張り出そうかと、
物騒な考えが一瞬、卓の頭を掠めたのだが…。
”無理に引きずり出しても、素直に話を聞くとは思えないしな…。”
今よりもっと依怙地になるのがオチだろう。
”押してだめなら引いてみろってか…?”
卓は長期戦を覚悟して、固く閉ざされた寝室のドアの前に座った。
今日は土曜日で、卓の仕事も休みで、茜も学校もバイトも休みで、
久々にふたり揃っての休日だった。
夏休み以降、茜が休みの日は卓が休日出勤だったり、
卓が休みの日は茜がバイトだったりで
なかなか休みが合わず、ずっとすれ違いの休日だったのだ。
ふたり揃っての休日は、もう、かれこれ2ヶ月ぶりくらいの事だった。
昨夜は夜遅くまで夜更かしして、卓が会社の同僚から借りてきたDVDを観て、
今朝は自然に目が覚めるまで目覚ましもかけないで、ゆっくりと眠った。
先に目を覚ました茜を、卓が強引にベッドに連れ戻して抱き合った後、
ふたりして二度寝して、ようやく起き出したのは、もうお昼に近い時間だった。
手早くシャワーを浴びて、遅めの食事を取って、午後から買い物に出かけた。
少し後の冬物バーゲンのために欲しい洋服にチェックを入れたり、
CDショップで新譜を買ったり、本屋で立ち読みしたり…。
そんなこんなで駅前のショッピングモールを出る頃には、
もう、陽も落ちて、あたりはすっかり暗くなっていた。
「6時半かー…まだ晩飯にはちょっと早いなー…どうする?」
「どうしようか?」
そんな事を話していた時、後ろから突然声をかけられた。
「…あれー?氷室さん!?」
振り返ると、そこにいたのは、会社の女子社員の二人だった。
「…あ」
「氷室さん、お買い物ですか?」
「あー、うん、まぁ…。…そっちは?休日に二人揃って買い物?」
「はい。…ほら、今バーゲン中ですし。戦利品戦利品。」
彼女たちは店の名前のロゴの入った袋を目の前に掲げて見せた。
「氷室さん、この後、お時間ありますか?もし良かったら、飲みに行きません?」
「あ、いや…連れがいるから今日は遠慮しておくよ。」
そこで彼女たちは、茜をちらりと見た。
その視線には好意的なものは感じられなかった。
…どちらかと言うと、その逆の感情が込められていた…。
「…えー、氷室さん、いつもそう言って会社の飲み会にも参加しないじゃないですか?
たまには一緒に飲みましょうよー?」
「そうですよ、たまには付き合ってくださいよ」
「…卓、行ってきたら?…会社の付き合いって、大事なんじゃない?」
「ほら、彼女もこう言ってくれている事ですし、行きましょうよ」
「…茜」
「あたし、先に帰ってるから、ゆっくりしてきたら?」
「おまえも一緒に行くか?」
「あたしは…お酒飲めないし、いい。」
「別に酒飲まなくても、ノンアルコールのドリンクとか…」
「…でもぉ、未成年連れてっちゃまずいよねー…」
「それに、これから行こうと思ってるお店、ジーンズNGだしぃ…」
二人は茜を見て、顔を見合わせて意味深に笑ってそう言った。
その言葉と態度に、茜はカチンと来た。
あからさまに茜の存在が邪魔だと言っているようなものである。
だが、卓の会社の人の前で、あからさまに不愉快な顔を見せる訳には行かない…。
卓も、彼女らの言い方に一瞬不快そうな表情を見せかけたが…茜に止められた。
「…卓、私、先に帰ってるね。…荷物、持って帰るから、貸して」
卓の手から荷物を取って、茜は彼女たちに軽く頭を下げてその場を離れ、
あっという間に人込みに紛れて見えなくなった。
「…茜!」卓が止める間もなかった。
「氷室さーん、行きましょうよー」
背後から甘ったれた声が卓を呼んだ。
「……じゃあ、ちょっとだけ付き合うよ」と言い、卓は歩き出した。
”…さて…こいつら、どうしてくれようか…。”
卓は表面上は彼女たちに愛想のいい振りを装いながらも、頭の中では
茜をあからさまに邪魔者扱いして帰るように仕向けた彼女達への意趣返しを考えていた。
卓は彼女達について行き、一軒のバーに入った。
卓は、ブラックルシアンをオーダーして、彼女達の話に適当に相槌を打っていた。
相槌を打ってはいたが、内容は全く聞いていなかった。
そして、カクテルが運ばれてくると…。
呷るように一気に飲み干して、5千円札を一枚カウンターの上において立ち上がった。
そして、呆気に取られてる彼女達に…。
「じゃ、一杯付き合ったし、俺帰らせて貰うから」と、涼しい顔で言ってのけたのだ…。
店を出てすぐ、卓は茜の携帯に電話した。
だが、茜は出なかった。
家の電話にもかけたが、出掛けにセットした留守電のままだった。
卓は人込みをかき分けるようにして急いで家に帰った…。
家に帰ると、電気もついていなかった。
靴があるので、茜が帰って来ているのは分かった。
リビングの電気をつけると、ソファの上に今日買って来た物が袋に入ったまま
放り出されたままになっていた。
茜のバッグも放り投げられたままで、口の開いたバッグから、携帯電話が床に落ちていた。
そして、当の茜は寝室に閉じこもって、鍵をかけていた…。
どんなに呼んでも、返事さえしなかった。
そして、冒頭の通り、卓はしばらく時間を置いて、茜が落ち着くまで待つ事にした…。
茜は、家に帰って来て、持って来た荷物や自分のバッグを
乱暴にソファの上に放り投げて、寝室に駆け込んで鍵をかけた。
おそらくすぐ帰ってくるだろう卓と、顔を合わせたくなかった。
きっと、卓の顔を見たら、卓は悪くないと分かっていても、
理不尽に八つ当たりしてしまいそうだった。
「…ぅ…っ!」
鍵をかけたドアにもたれかかって、茜はいつの間にか泣き出していた…。
せっかくの楽しい一日が、台無しになってしまった気分だった。
茜が予想したとおり、卓はそれから30分もしない内に帰って来た。
すぐに寝室のドアをノックしてきたが、茜は返事をしなかった。
ドアの向こうで、卓が何度も呼びかけて来ても、ドアを開ける気になれなかった。
そして、つい、言ってしまった。
「…ほっといて!!」と…。
それきり、ノックも呼びかける声もピタリと止んだ。
茜は膝を抱えて座り込んで、また少し声を殺して泣いた…。
茜は束の間の眠りから目を覚ました。
膝を抱え込んだ姿勢のまま、泣いている内に、眠ってしまっていたのだ。
乾きかけた涙の跡が少しひりひりして痛い。
その部分に触れようとして、ふと、自分の指に目が留まった。
”あの人たち…綺麗な手してたなぁ…。”
彼女達は、爪の形を綺麗に整え、カラフルなネイルアートを施していた。
茜は、自分の手を見て、ため息をついた。
調理師の専門学校に通っている茜は、毎日実習があるため、
爪を伸ばしたりネイルカラーを塗ったりする事が出来ない。
それに、バイト先も学校から紹介された、食材を扱ったり、洗い物もする店のため、
手自体も荒れてしまっている…。クリームをつけてケアはしているものの、
人一倍手肌の荒れやすい性質なのか、完全に治ることはなかった…。
それに…。
彼女達は、とても綺麗にメイクして、大人っぽい服を着こなしていた…。
コンビニのチープコスメでメイクして、ラフなジーンズ姿の自分とは大違いだった…。
茜があの場から居たたまれなくなって逃げ出したのは、
彼女達と比べられるのが怖かったのと、子供っぽい自分に引け目を感じたからだった。
卓がいつも会社で見て、一緒に仕事している女の人をはじめて目の当たりにして、
茜は自分の子供っぽさを、改めて自覚してしまった…。
「……」茜は大きなため息をついた。
ふと気づいて時計を見ると、もう11時を回っていた。
気まずいけれど…いつまでも立て篭もっているわけにも行かない…。
卓を寝室から締め出す訳には行かなかった。
茜はウエットティッシュで手早く涙の跡を拭って目薬をさし、
泣いて充血した目を少しでも目立たなくしようと努力した。
…そのごまかしが卓に通用するかは疑問だったが、
何もしないよりはましだろうと思って…。
少し時間を置いてから、茜は鍵を開けた。
かちっ、と、背にしていたドアが音を立てたのに気づいて、卓ははっとした。
立ち上がって、ドアノブに手をかける。
ドアは簡単に開いた。
「茜…」
「…ごめんね、卓」
卓の顔を見た茜の第一声が、それだった。
「なんで、茜が謝るんだよ…」
「だって、あの人たちにちゃんと挨拶出来なかったし…気悪くしてなかった…?」
「いいよ、そんなの気にしなくて。あいつらの態度の方が悪かったし、
茜の方がずっと嫌な思いしただろ?…ごめんな、嫌な思いさせて」
「……」卓の一言で、茜の表情がふにゃっ、と泣き顔になった。
「茜、おいで」
「卓…」
茜は卓の腕の中で思い切り泣いた。
さっき、あんなに泣いたと言うのに、涙が止まらなかった…。
でも、この涙は、卓がちゃんと分かっていてくれたことに対する涙だった。
卓は茜が泣き止むまで抱きしめて、茜の髪や背中をずっと優しく撫でつづけた…。
「…落ち着いたか?」
「…うん…」
泣き止んだあとも、しばらく茜は卓のシャツに顔を埋めたままでいた。
泣きすぎて腫れぼったくなった目や顔を見られたくなかったから…。
小さな子供みたいに思い切り泣いたから、とてもじゃないけれど、
卓にこんな顔、見せたくない…。
”子供っぽいって、言われても仕方ないのかな…?”
「…茜?」卓が茜の顔を覗き込もうとする。
「や…ダメ、見ないで…!」
「なんで?」
「だって、泣いた後で…ヒドイ顔してるから…」
ぼそぼそと言う茜に、卓がちょっと笑った。
「…そんな事気にしてたのか?」
「そんな事って…あっ!」
卓の手が、茜の顔を上向かせる。
「ちょ…卓、やっ…!」
茜は卓に顔を見られまいと俯こうとしたけれど、
卓の指がしっかりと茜の顎を押さえていて、できなかった。
「…どんな顔してたって、茜が好きだよ。だから、変なこと心配しないでいいよ」
「…卓…」
「…拗ねても泣いても怒っても茜が好きだよ」
卓の言葉に、茜は素直に頷いた。
「…うん…」
「よし」卓は笑って茜の頭を軽く撫でて…キスをした。
そして、もう一度キスをしようと、二人の唇が近づいた瞬間…
ほとんど同時に、二人のおなかが音を立てた。
「……」
「……」
二人は暫しの間顔を見合わせて…次の瞬間、同時に笑い出してしまっていた。
「ご…ごめん…」
”こんな時に鳴るなんてー…!”茜は自分の腹の虫を恨めしく思った。
「いや…晩飯、食ってなかったからな…腹も減るはずだよ…。
待ってな、すぐ何か作るから」
「え、待って、あたしが…」
「いいから。茜は顔でも洗っておいで。そのままにしておいたら、
明日起きたら目ぇ腫れるぞ。ちゃんと洗って冷やしとけよ」
「…う、うん」
『拗ねても泣いても怒っても茜が好きだよ』
その言葉だけで、今日のいやな出来事の全てを忘れられると茜は素直に思った。
”でも、卓の前ではいつも笑っていられる自分でいたい…。”そう思った…。