放課後の旋律 (前編)
ドアを開けると、ピアノの音が止んだ。
「…いらっしゃいませ」
いたずらっぽい笑みを浮かべて、彼女が言うから。
「おじゃまします」
俺も少し笑って答えた。
中に入り、ドアに鍵をかけた。
彼女のリクエストのアイスティーの缶を、近くにあった机の上に置いた。
「…ありがとう」
彼女は微笑んで、またピアノを弾き始めた。
葛西朔夜(かさいさくや)が音楽室によく足を運ぶようになったのは、半年ほど前からだった。
ちょうど文化祭前の時期だった。
会長である朔夜は、生徒会の仕事が殺人的に忙しくて。
いくらやっても減らない仕事にうんざりしていて。
少しの間だけでもいいからひとりになりたくて。
人目につかないように特別教室棟へとやってきた。
「…?」
微かに聞こえてきたのは、ピアノの音。
”誰だ…?”
今は試験前で、部活動はない。と、言う事は合唱部ではない。
今日は職員会議中だから、音楽の先生…という可能性もない。
朔夜は、このピアノの弾き手が誰なのか探るために、音楽室へと向かった…。
音楽室の覗き窓からそっと中を見た朔夜は…。
「………」
びっくりした。
あまりに驚きすぎて、しばらく動けなかったくらいに。
「…沢…井?」
そこにいたのは、同じクラスの、沢井美聡(みさと)と言う少女だった。
驚いたのは、彼女の雰囲気がいつもとは全然違ったからだった。
普段の教室での彼女は、いまどききっちり編んだおさげ姿に眼鏡をかけて、
いつも俯いて文庫本を読んでいるようなおとなしい少女だった。
クラスメートに話しかけられれば受け答えはするが、自分からは話さない、そんな少女だった。
”…こんな表情、できる奴だったんだ…”
美聡は、普段の地味な雰囲気とは似ても似つかない雰囲気を纏い、ピアノを弾いていた。
眼鏡をはずし、髪を解くだけで、あんなにも雰囲気が変わるのか…。
そして何より、あんなに楽しそうな表情ができたのか…。
正直言って、普段の彼女は、苦手なタイプだった。
自分の殻に閉じこもるようなタイプは、あまり好きではなかった。
だから、今まで話したことも数えるくらいしかなかった。
…一年のときから同じクラスだったにもかかわらず。
足が、釘付けになったように動かなかった。
苦手だと思っていた相手に、この日朔夜はひとめで恋をした。
一目惚れなんて、あり得ないと思っていたのに。
教室での彼女は相変わらず地味で、ひっそりとクラスの中に埋もれていたけれど。
朔夜は、それからずっと気をつけて美聡を見ていた。
あの日から、生徒会室を抜け出し、人目を避けて音楽室を見に行くのが朔夜の日課になった。
彼女は毎日ピアノを弾きに来る訳ではない。
合唱部の練習が終わった後か、休みの日、誰もいない時を見計らってこっそりと来ているらしい。
その曜日はランダムで、気が向いた時だけ来ているらしかった。
だから、予測をつけて見に行ってもいないことも多々ある…。
運良く美聡のピアノを弾く姿を見ることが出来た日は、三割増しくらい機嫌がいいらしい。
生徒会役員からそう指摘されるまで、不覚にも自分の変化に気づけなかった。
だが、それにしても…。
何故、美聡は本来の姿を隠すのだろう…?
あんな地味な姿で、周りを欺いているのは何故なのか…?
だが、そう疑問に思う一方で、音楽室での美聡の姿に周囲が気づかないといいと言う
相反する願いを、朔夜は持っていた…。
”どうか、誰も、今の彼女に気がつきませんように…。”
彼女の本来の姿に気づく者が現れたら、多分それだけでライバルが激増するだろう。
”反則だろ、眼鏡と髪型だけで、こんなに変わるだなんて…。”
朔夜は、美聡に声をかけるのを長い間迷い、躊躇していた。
自分が声をかけることで、美聡がここに来なくなることを、恐れていたのだ。
だが、朔夜の忍耐力も限界に近くなってきていた。
自分が近づくより先に、誰かが彼女が奏でる放課後の旋律に気がついてしまったら。
その思いが、今までドア越しにこっそり見ているだけだった朔夜の背中を押した。
朔夜の手が、ドアノブにかかった。
ギィ…と、音を立てて開いたドアに、美聡のピアノを弾く手が止まった。
…中途半端な不協和音を残して。
「…誰っ…!?」
「ごめん、驚かすつもりはなかったんだけど…」
朔夜は後ろ手でドアを閉めた。
「…葛西くん…?」
美聡はピアノの上に置いてあった眼鏡を取って慌ててかけた。
だが、おろした髪はすぐに直しようもない。
「沢井…」
「み、見ないで…!」
美聡はその場にしゃがみ込んだ。
美聡は混乱し、ひどく動揺していた。
”…どうしよう…!?誰もここに来ることなんてないと思っていたのに…”
いままで、誰にも見つからずにいたから、油断していたのかもしれない…。
うっかり、鍵をかけるのを忘れてしまっていた。
よりによって同じクラスの、生徒会長まで務めている朔夜に見つかってしまうなんて…。
音楽室の無断使用がばれてしまった。
もう、ここに来ることは出来ないだろう…。
しかも、こんな姿を見られてしまった。
”は、恥ずかしすぎる…っ!”
「…沢井」
静かな朔夜の声に、美聡はびくっと体を震わせた。
怒られるか、馬鹿にされるか…と、美聡は怯えていた。
だが、朔夜の次の言葉は、美聡の予想とは違っていた。
「ピアノ…上手いんだな」
「…え…?」
思わず、美聡は朔夜の方を振り返った。
「…誰にも言わないから…そんなに怯えないでいい」
「…葛西くん…?」
「…その代わり……時々、ここに来てもいいか…?」
「……え?」
「…沢井のピアノ、聴かせて欲しいんだ。このことは絶対誰にも言わない、約束するから」
「……怒らない…の?」
「なんで?」
「え…だって、私、ここを無断で使っていたのに…」
「…ああ、そのことか。…別に、この音楽室はあまり使われていないんだし、問題はないだろう」
あっさりと告げた朔夜に、美聡が脱力する。
「…よ、よかったぁ…」
「…ところで…さっきの返事は?」
「…誰にも言わないでくれるなら…」
「…ああ」
こうして、美聡の放課後の秘密は、朔夜との共有の秘密となったのだった…。
ピアノの上に眼鏡と一緒に置いてあった携帯が震えた。
美聡はピアノを弾く手を止め、メールを確認する。
送信者は、いまさら確認するまでもない。
ここにいる時にメールを送ってくる人物の心当たりは、ひとりしかいない。
『―今から行ってもいいか?』
美聡は、内容を確認し、手早く返信した。
『―いつものあれ、お願いしてもいい?』
返事はすぐに返ってきた。
『―わかった』と。
美聡は携帯をピアノの上に置くと、再び鍵盤に意識を戻した。
その10分ほど後。
ドアが開いて、朔夜が入ってきた。
美聡は彼を見て微笑んだ。
「…いらっしゃいませ」と、いたずらっぽく言いながら…。
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