6 Kiss Kiss Kiss



克己の言葉に、皐は反論できなかった。
確かに…今まで、自分が傷つくのが何よりこわくて、
今まで予防線を張って、やってきた。
本気で求めるから、手に入らないと分かった時につく傷は深い。
だったら、本気で求めなければいい…。
本当に欲しいものに手を伸ばして…手に入らない時のことがこわくて、
それよりは比較的簡単に手に入るもので、自分の気持ちを騙してすりかえてきた…。
でも、本当は…。
本当に欲しいものを欲しいと言ってみたい…。
だけど…今回もまた、手に入らなかったら…?
「何をそんなにこわがっているの…?」
「…!」
”…どうしてこの人は…本当に何もかも…。”
皐の瞳から、また新しい涙が溢れだす。
頬を伝った涙は、自分を抱きしめる克己の手に落ちた。
”今日…涙腺壊れっぱなしだわ…。”
「何が欲しい?どうしたいか、言ってごらん。」
促されても、言葉が出てこない。
たった一言が、言い出せない。
欲しいのはただひとつなのに。
「…皐。」自分の名前を呼ぶ克己の声に、体の奥が震える。
『心』なんて目に見えない、カタチのないもの、のはずなのに。
でも、震えたのは多分その実体のないはずの『心』のような気がした。
「あたし…は…。」
皐が、重い口を開く。
克己は皐の次の言葉を黙って待った。
”たぶん、センセイは、あたしの言いたい言葉、分かってる…。”
分かってても。
”ダメ…!やっぱり言えないよ…!”
自分の筋金入りの臆病さが、これほど歯痒いと思ったことはなかった。
…だけど…。
長年培った性格はそう簡単に変えることなんて、できない…。
「…しょうがないなぁ…。」
耳元に、苦笑まじりの、克己の声が聞こえた。
「あ…っ…!?」振り向かされて、上を向かされて。
気づいた時には、克己の唇が、再び皐の唇に、触れていた…。



ごく軽く触れるだけの、キス。
いったん唇が離れる。でもまたすぐに、触れてくる。
唇に、額に、頬に、まぶた…。
そして、頬の乾きかけた、涙の跡に。
一度軽く唇が触れた後、克己は…。
「…ひゃ…!」
皐は、涙の跡に触れた克己の舌の感触に、思わず身を引こうとした。
でも、克己の両腕が、皐をしっかりと抱きしめていて、動けなかった。
「…ん…。」
再び、唇が重なる。
「…!」僅かに開いた唇を割って、熱い感触が侵入してくる。
それが何か分かるまでに、数瞬の間があった。
分かった瞬間、一気に頬に朱が走った。
「ん…っ!」
唇を離そうとしても、頬に触れている手が、それを許してくれない。
何度も繰り返されるキスに、思考が麻痺しそうになる。
克己の手がゆっくりと移動し、皐の耳に触れる。
輪郭をなぞり、耳朶をくすぐる。
皐の体がびくっと震えた。
体の芯が、熱くなるのが、自分でも分かる。
心臓が、壊れるんじゃないかと思うほど、早鐘を打っている。
克己の唇が離れ、少し呼吸が楽になった。
「…?」おそるおそる克己を見上げると…
少し顔を近づければまたすぐに唇が触れそうなほどの至近距離で、
克己が優しい目で自分を見ていた。
そのまなざしに、皐は引き込まれてしまいそうな錯覚に陥りそうになる。
”どうして…そんな目で見るの…?”
おさまりかけた胸の動悸が、再び激しく高鳴る。
きっと、今、自分は変な顔をしてるんだろうなと、皐は思った。
顔は真っ赤だろうし、泣いた後だから、目も赤くて潤んでるだろう…。
そんな顔を見られるのが恥ずかしくて、視線を逸らして俯いた。
…その表情も仕草も、克己にとっては皐への愛しさをより深めるものだとは
皐には分からなかった。
皐を抱きしめる腕に力が入る。強く、きつく抱きしめられる。
「センセ…ちょっと、苦しい…。」
皐がそう言うと、少し、腕の力が緩んだ。
「…皐…『センセイ』はやめてくれって、言ったろ?」
「え…だって…。」
「克己でいいから。」
「え。…でも…だって…。」
”いきなりそんなこと言われたって…。”
「呼んでみて。」
「……。」
「俺を見て、名前呼んで。」
「…か…克己…さん。」
「『さん』はいらないよ。」
「…だって、センセ…じゃなかった…克己さん、年上だし…。
呼び捨てなんて、失礼じゃない…。」
「本人がいいって言ってるのに?」
「……。」
「『さん』付けするなら…。もう一度キスするよ?」
「…!?…ちょ…ちょっと…んっ…!」
言葉の意味を理解するよりも早く、唇がふさがれる。
「…なんで?…最初に会った時と全然性格違うよ。…だ…」
「『騙された?』」言いたい事を先取りされて言われて、言葉に詰まる。
そんな皐の様子を克己は楽しげに見つめていた。
「…うわ…なんか余裕…?」
さらに克己の笑顔が楽しげに深くなる。
「…もう…!絶対名前でなんて呼んであげない…!」
「ふーん、そんなこと言っていいの?」
「…え!?…や…っ!…んっ!」
きりのないキスに、皐がとうとう観念した。
「も…う…克己さん…強引過ぎる…。」
『さん』付けをやめないのは、皐のぎりぎりの抵抗らしい…。
「…まあ…さん付けでも良しとしとくか…今は。そろそろ帰る時間だ。送っていくよ。」
二人の長いキスに根負けしたのか、
いつの間にか夏の長い陽も、夕日に変わろうとしていた…。



いつものように車で送ってもらって、家の前についた。
照れくさくて、皐は克己の顔すらまともに見れなかった。
「…じゃあ、また明日。」
克己の声にはっと我に返る。
”もう、着いちゃったんだ…。”
照れくさいけれど、恥ずかしいけれど、離れがたい。
「…あ、は、はい…。」
ドアを開けて、車外に出ようとした皐の腕を、克己が掴んだ。
「克己さ…っ!」
一瞬、掠めるようなキス。
「…もう…誰かに見られたらどうするの…?」
さっきまでの出来事を思い出し、皐が赤面した。
「ごめん、でも、したかったから。」
そう言われてしまうと、皐にはもう何も言い返せない。
「そ、それじゃ…また明日。」
「うん。」
皐は車を降りて、克己の車が見えなくなるまで見送ってから、家の中に入って行った。
…隣家の塀の陰に身を隠すようにして、
車中の二人のやり取りを見ていた人物がいたことを、二人とも気づかなかった…。
このことが、少し後で、克己と皐の関係を大きく変えることになることも…
この時の二人はまだ、知らなかった…。

その日の夜…。
皐はお風呂から上がって、洗面所で髪を乾かしていた。
目の前の鏡に映った、自分の顔を見つめる。
”…キス…したんだ…。”
そっと、自分の唇に触れる。
思い出しただけで、顔が赤くなる。
恥ずかしくて、でも、嬉しくて、自然と、口元が緩む。
「…何鏡の前で百面相してんだか…。」
そんな皐の気分をぶち壊す声が、背後から投げつけられた。
一気に気持ちが沈みそうな声の主は…信だった。
「…すみませんね、でも、私がどんな顔していようと、あんたには関係ないでしょ」
皐は慌ててドライヤーや洗面道具を片付けて、
信の横をすり抜けて部屋に戻った。
だから、皐は気がつかなかった。
自分に対して憎まれ口を叩いて、背中を向けて去っていく皐を、
信がじっと見つめていた事を…。





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