6 再会…そして、最後の選択
新しい部屋に引っ越してから、2か月が経とうとしていた。
英里は、窓をたたく雨音で目を覚ました。
目を開けた瞬間、涙が零れて目じりを伝い、枕を濡らした。
泣きながら目覚めると、目がしみるように痛い…。
視界がぼんやりと霞がかかったように、ものの輪郭が、ぼやけて見える
英里はパジャマの袖の端で、涙を拭った。
あの日の夢を、見ていた。
あの雨の日に自分に起きた、夢のような出来事の夢を。
あの日の夢を見て目覚めた後は、いつも目が覚めると、泣いている自分に気づく。
英里は涙を拭って起き上がり、カーテンを開けた。
土砂降りとまでは行かないが、結構、雨足が強い。
あの日から数えて、7度目の雨の日だった…。
雨が降るたび、英里はあの店を探しに、あの街へ行っていた。
そのたびに、見つからずに落胆する日々を繰り返していた。
”彼にとっては、あの日の事はただの一時の気まぐれ…遊びだったのだろうか…?”
そんな考えが、英里の頭をよぎる。
そして、その考えを、打ち消すように首を横に振る。
”そんなこと、信じたくない…!”
馬鹿な女の、愚かなプライドかも知れない。
だが、あの日のことを、彼の言葉を、彼に抱かれたことを、
なかった事にしたくはない…できない…。
こんな、中途半端な気持ちのままじゃ、終われない。
英里は、あの日と同じ、ライトグリーンのスーツに袖を通した。
その上にレインコートを着て、傘とバッグを持って、部屋を出た。
”これで、最後にしよう。見つからなかったら、今日こそ、諦めよう。”
そう、覚悟を決めた。
バスと電車を乗り継いで、あの街に向かう。
『あの人に逢いたい。』
その気持ちひとつだけを持って…。
街は、降り続く雨のせいか、ひっそりとしていた。
英里は駅の改札を出て、ゆっくりと歩き出した。
少しでも、あの場所に辿り着くのを、引き延ばすために。
そうするのは、心のどこかで、もう逢えない、今日も駄目だろうと、
本当は思っているからなんだろうと、英里は自分で思う。
分かってるから、こうして、ゆっくりゆっくり歩きながら、心の準備をしてる…。
そう思いながら歩いて来て、あの店があった場所に着いた。
今まで見てきた通り、予想していた通りで、
そこはシャッターがかたく閉ざされたまま、
『テナント募集』の貼り紙が貼ってあった。
分かってはいたけれど…でも。
かすかに、心のどこかで自分はまだ、淡い期待を捨てきれずにいた事を思い知った。
晩秋と初冬の狭間の、冷たい雨に英里の体はぶるっ、と震えた。
”これで…本当に諦めなくちゃ…。終わりにしなくちゃ、いけないんだ…。”
英里は、もと来た方向に引き返そうと、踵を返した。
その時…。
ちりん…と、小さな鈴の音が、聞こえた。
その音に、英里はハッとして立ち止まる。
…この鈴の音には…聞き覚えがあった。
今すぐに振り向いて確かめたい。でも、振り向くのが、こわかった。
その英里の耳に届いたのは…。
「…また、逢えましたね。」
忘れられない、忘れられるはずもない、あの人の、声。
逢いたくて、ずっと、聞きたかった、彼の…。
英里の瞳に、涙が溢れる。英里は、おそるおそる振り向いた。
穏やかな表情の彼が、立っていた。
「…!」
英里は、持っていた傘を放り投げ、彼の胸へ飛び込んだ…。
信じられなかった。これも、夢じゃないかと思った。
でも、飛び込んできた英里を、しっかりと抱きしめる彼の腕の強さが、
夢じゃないと、証明してくれた…。
「…ひどいわ…!…捜したんだから…どうして、いなくなったりしたの…?
目が覚めたら、あなたはいなくて…!
あれから、どうしたらいいか、分からなくなって…!」
何を言っているのか、何を言えばいいのか、分からなくなって、
あとはもう、言葉にならなかった。
泣きじゃくる英里を、彼は黙って強く、強く抱きしめた。
そして、室内に連れて入った。
もう一度、ちりん…と、鈴の音が聞こえた。
英里の放り投げた傘が、ぽつんと地面に転がったまま、降り続く雨に濡れていた…。
英里は、シーツに包まって、うとうとと微睡んでいた。
髪に触れる手の感触に、ハッとして目を覚ます。
「…大丈夫ですよ、心配しなくても、もう僕は黙っていなくなったりしませんから。」
英里は髪を撫でる彼の手に、自分の手を重ねた。
「…どうして、あの時、何も言わずに、いなくなったの…?」
ずっと、疑問に思っていた事を、英里は彼に尋ねた。
何故、あの日、目が覚めたら、自分の部屋にいたのか…。
ずっと、それを疑問に思っていた。
「…もう、貴女も気づいていると思いますが…
ここは、貴女の日常生活の…これまでの常識の範疇にある場所じゃありません。
…あの日、貴女をあのまま、ここに留めておきたかった。
でも…僕のその気持ちだけで、貴女をここに留める訳には、行きませんでした。
ここに…こちら側に来てしまえば、貴女がこれまでいた場所には…
もう、戻ることはできないんです。
だから、一度、貴女をもとの場所に帰して…賭けをしたんです。」
「…賭け…?」
「ええ。…貴女が僕を捜してくれたなら…僕を求めてくれたなら…その時は…と。」
「…私も、賭けをしていたの。
もし今日、あなたに逢えなかったら…諦めようって、思ってた。
…あなたも、私も、賭けに勝ったのね。」
「…いいんですか?」
「…あの日、あなたが教えてくれたのよ?
『何を捨てて何を取るか。その選択を見誤らないで。』って。
私の選択肢はただ一つだけ…あなたのそばにいたい。それだけなの。」
「…。」彼は、英里をもう一度、強く抱きしめた。
「…もう一つ、聞きたいことが、あるの。」
「…何ですか?」
「あなたの名前。…教えてくれる…?」
「…櫂…。雨宮櫂です。…貴女の名前は…?」
「水沢英里…よ。」二人はようやく、互いの名を知った。
その日を境に、英里の姿を見た者はいない…。
住んでいた部屋もそのままに、英里は姿を消した。
彼女の親族が、八方手を尽くして探したが、彼女は見つからなかった…。
彼女の行方を知る者は、誰もいない…。 【End.】