5 想い出を置き去りにして



英里は、束の間の眠りから目覚めた。
辺りを見回し…ぼんやりとした意識が一気に覚醒した。
「……え!?」
そこは、見慣れた自分の部屋だった。
”嘘…どうして…?”
服装に、乱れはなかった。朝、家を出る時に着ていた、ライトグリーンのスーツ…。
窓を開けて外を見ると、外はすでに雨はやみ、夕焼けの空が広がっていた。
”…あれは…夢だったの…?”
だが、体には確かに彼を…男の人を受け入れた感覚が残っている。
行為のあとに、感じる覚えのある気だるさも…。
その時、電話が鳴った。
「…もしもし…。」
『英里!?あなたどうしたのよ、無断欠勤なんかして…!』
仲のいい同期の涼子からだった。
「…うん…ちょっと…。」
『…具合でも悪かったの?
とりあえず私が朝、英里から電話受けて、体調が悪かったってことにしておいたから。
…明日はちゃんと出てこれる?』
「…うん。」

適当にごまかして涼子からの電話を切った後、英里は部屋を飛び出した。
駅までの道を走る。
どうして、いつの間に自分が部屋に戻っていたのか、まるっきり覚えていなかった。
一瞬、あれは自分の夢だったのか…?と思った。
だが、無断欠勤は事実だった。
今日のことは、夢なんかじゃなかった…はずだ。
…しかし…。
「……嘘…!?」英里は呆然とした。
あの店があったはずの場所は…固くシャッターが閉ざされ、
(テナント募集)と書かれた紙が貼られていた。
”そんな…だって…朝は、確かに…。”
「…あの、どうかしましたか?」
「あ、あの、ここ…喫茶店じゃなかったんですか…?」
「…は?いや、ここは、もう1年以上借り手がついてなくて、空いたままですが?」
「…そんな…!?あの、失礼ですが、あなたは…?」
「…?私はここの管理を任されている不動産屋です。
…あ、もしかして、ここを借りたいとか?」
「い、いえ、違います、お呼び止めして、すみませんでした。」
英里は、引き返し、部屋に戻った。
”どういう事…?やっぱり、あれは、夢だったの…?”
夢にしては、やけにリアルだった。
走ったせいか汗をかいて、薄い生地のブラウスが肌に張り付いて、気持ち悪い。
シャワーを浴びようと、英里は脱衣所で服を脱ぎ、
洗面台の鏡に映った自分の姿を見て…愕然とした。
”これ…!!…やっぱり、あれは…!”
胸元と、首筋に、薄く赤い跡が、いくつか残っていた。
それは、さっき、彼が辿った、唇の…。
「…夢じゃなかったんだ…。」
英里は鏡に移る自分の姿を見て、泣いた。
今日のことは、夢じゃなかった。
でも、あの場所に、喫茶店なんかなかった。
彼が何者なのかさえ、分からなかった。
でも、英里の体には、彼の痕跡がはっきりと残っていた。
”名前さえ、聞けなかった…。私の名前も…言ってない…。”
分からないことが多すぎて、混乱していたけれど、
たった一つだけ、分かったことがある。
おそらく…彼には、二度と逢えないだろうと、言うことだけ…。
涙が、止まらなかった…。



あれから、1週間が経った。
英里は、あの後すぐに、会社に辞表を提出した。
会社は…上司は、あっさりとそれを受理した。
…引き留められることもなかった。
異動の辞令そのものが、それを期待してのものだったのかもしれないと
うすうす思っていたから、それに関して、特に何も言う事もなかった。
あれだけ会社に、仕事に固執してきた今までの数年間は一体何だったのだろうと、
ちらりと思ったが…。
それも、今となってはどうでもいいことだった。
今は引き継ぎを済ませ、貯まりに貯まっていた有給休暇を消化している最中だった。
もう、退社の日まで、会社に行く必要はなかった。
この後の予定は、まだどうするか、考えていなかった。
暫くの間は、今までの貯金と退職金で、贅沢をしなければ過ごして行けるだろう。
今後のことを考えるのは、もう少し後でいい…。
今は、何も考えたくない…いや、少し違うか…。
今後のことを、他のことに無駄に時間を費やす事なく考えたかった。
と、言うのが正しいのかもしれない…。

英里は家賃の高い今の部屋を出て、もう少し安い部屋に引っ越すことにした。
引越し先はすぐに決まった。
都心からは離れることになったが、その分静かで、良い環境だった。
荷物をまとめながら、その合い間に、あの日のことを思い返す日々が続いた。
あの日の彼との会話が、英里に会社を辞める決心をさせた。
『嫌なら、全部捨ててしまえばいいんですよ。』
あの日の彼の言葉が蘇る。
『何を捨てて何を取るか。
その選択さえ見誤らなければ、自ずと結果はついてきますよ。』
今なら、彼の言葉の意味が良く分かる…。
『捨ててもかまわないもの』に、固執していた自分を、彼は即座に見抜いた。
そんな、簡単なことさえ分からなくなっていた自分に、気付かせてくれた。
でも…『失いたくないもの』を、残すことは出来なかった。
いや…手に入れることさえ、出来なかった…。
自分に残されたのは、あの日の記憶と、あれが夢じゃなかったことだけを証明する
この体に刻まれた、いくつかのキスマークだけだった。
それも、今は消えかけて殆ど分からない…。
これが消えてなくなってしまえば、あの日の記憶だけしか、英里には残らない。
…想い出だけを置き去りにして、彼はいなくなった…。





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