1 人生最悪の一日
英里は、憂鬱な気持ちで駅までの道を歩いていた。
昨日は人生最大の厄日かと思いたくなるほど、最悪の一日だった。
まず、いつもより一時間も寝坊した。
そのせいで遅刻した英里を待ち受けていたのは、セクハラ上司とイヤミお局先輩OLの
妙に息の合ったお説教の波状攻撃だった。
ここまでは、自分の不注意によるミスだから叱られても仕方ない。
だが、その後英里を待っていたのは、支店への突然の配置転換の辞令だった。
女性総合職として入社した英里だったが、与えられる仕事は、
一般職の女性社員たちと何ら変わりの無い、お茶汲み、コピー、資料の整理…。
それらをこなした上で、企画書を仕上げて提出しても、
手柄は男性社員の物にされてしまう。
それでも、辞令の出た支店は、同じく総合職の女性社員が先月、上司として就任したと言う。
少なくとも、今よりはまともな仕事をさせてもらえるかも知れない…。
そこに一縷の望みを託し、辞令を受ける決心をした。
その日の夕方、恋人の裕也から、会いたいとメールが来た。
裕也も今勤めている会社に不満を持ち、転職を考えている最中だった。
そのことに関する相談かも知れない…。
自分の辞令についても話さなければいけない。
そう考え、待ち合わせの店に行った英里を待っていたのは、
裕也からの突然の「別れたい」と言う、信じられない言葉だった。
専務の娘との縁談が決まったと言うのだ。
しかも、結婚と同時に、昇進すると言う最高の餌つきで。
あまりに身勝手な言い分に、何か言ってやろうと思っても、突然すぎて言葉も無かった。
彼に頭からコップの水をぶっかけて店を出た後、
英里は大量の缶ビールを買い込んで部屋に帰ってやけ酒を煽り、
そのまま眠ってしまい、そして今朝、飲みなれないビールのせいで二日酔いで痛む頭を抱え、
駅までの道を歩いているのだ…。
急に空が翳り、大粒の雨が降り出した。ライトグリーンのスーツに染みが出来る。
「…やだ…!雨…!」
晴れていたから、傘を持たずに出て来た。
もう少し行くとコンビニがある。
少し濡れるのは仕方ないが、そこまで行けば傘が買える。
走り出そうとしたその時、英里の視界に、一軒の店が留まった。
雰囲気からして、どうやら喫茶店のようだ。
”こんなところに、こんなお店あったかしら…?”
いつも、電車の時間ばかり気にして、周りなんて見ていなかった。
それだけ、英里に余裕が無かったと言うことなのだろう。
駅までの、たった10分の道程に、どんな店があるかさえ分かっていないほど…。
その時、店のドアが内側から開いた。
ドアにつけられたベルが、小さくチリン、と鳴った。
「いらっしゃいませ。どうぞ中へ。」
中から出てきたのは、一瞬ハッと息を呑むほどの、端正な顔立ちの青年だった。
「えっ、あの…。違うんです、私、これから仕事ですから…。」
「…何か…嫌なことが、あったんですね?」
「…!!」
「…何かに、傷ついた表情をしていますね。」
”このひと…どうして分かるんだろう…。そんなに私、表情に出てるのかしら…。”
「…どうぞ。」
彼の言葉には、断るのを躊躇うような、抗いがたい不思議な引力のようなものがあった。
英里は、見えない力に導かれるように、彼について店内に入って行った。
会社に連絡しなければ無断欠勤扱いになる。
…また、上司と先輩に叱られる…と一瞬思ったが、
今の英里には、そんなことはどうでもいいようなことのように思えた。
目の前の、不思議な雰囲気を持つ、この青年の前では…。