そして、4年後の現在…。
奈槻はフランスでの仕事を終え、日本に帰国する事になった。
最初の予定から、一年近く遅くなっての帰国だった。

奈槻がフランスでさまざまな壁を乗り越えて作り出した香水は、
社内コンペで認められ、製品化が決定した。
その瞬間、奈槻は、嬉しさよりも、全身の力が抜けたような奇妙な気持ちを感じた。
その気持ちは、なんだったのか…。

発売された奈槻の香水は大きな反響を呼び、品切れになる店舗が続出した。
あまりの反響の大きさを目の当たりにしても、奈槻は他人事のような気がしていた。
社内会議の結果、その年の一番の香水を決める、権威あるコンテストへの出品が決まり、
その結果…高い評価を得て賞を取った。
そして、今回、日本でも発売される事が決まったのだ。
奈槻は夢を実現させたのに、思った程喜んでいない自分に気がついた。
その理由は…。
一番喜んで欲しかった人が、もうそばにいないから…。
渡仏してから、一度も亮介には連絡を取らなかった。
どんなに辛いことがあっても…。

夢を実現させる為に、わがままを通して亮介のそばを離れた自分には
彼に泣き言を言う資格はないと、奈槻は自らを戒めていた。
この4年間、全てが順調に進んで来たわけではなかった。
むしろ、辛く苦しい事の方が多い月日だった。
勿論、奈槻とて、順風満帆に全てがうまく行くなどと、
甘いサクセスストーリーを期待してはいなかった。
だが、フランスに降り立った奈槻を待っていたのは、予想以上に厳しい現実だった。
まず、異国の風習や考え方の違いに戸惑った。
思うように伝わらない言葉のもどかしさ。
日本にいた頃から、この時のためにフランス語の勉強は怠らなかった。
だが、細かい部分の言い回しなど、相手にきちんと伝わらないことが多かった。
仕事上でのスタッフとの意見の食い違い…。
コミュニケーションを取ろうと歩み寄っても、
空回りしてしまい、より溝を深めてしまったこともあった。
それらが奈槻の前に立ちはだかり、容赦なく打ちのめした。
一部の成功者を除いて、おそらく海外に夢の実現を求めて渡った者達が
一度はぶつかるであろう壁に、奈槻も突き当たった。
寂しくて、悲しくて、悔しくて、ひとりで泣き明かした夜も多かった…。
さして強くもないアルコールに溺れて、つらさを紛らわそうとした時もあった。
何度日本に帰りたいと思ったことか…。
だが、諦めて日本へ帰国する事は、自分の気持ちを抑えてまで送り出してくれた
亮介の思いをも無にしてしまう…。
奈槻を思いとどまらせた一番の理由は、その思いだった…。
奈槻は躓いて、転んでもまた立ち上がり、一歩、また一歩と、前進し続けた。
それが少しづつ認められて、今回の成功につながった…。

今回帰国が決まった時、真っ先に頭に浮かんだのは亮介の事だった。
だがすぐに、もう、会えはしないと考え直した。
…きっと、今はもう、誰か他の女性が亮介の隣にいるだろう。
あれからもう4年の月日が経っているのだ…。
未だに自分を待っていてくれるかも知れないと言う、
ムシのいい考えを持っていていい年月ではない。
…もしかしたら、もう…結婚しているのかもしれない…。



奈槻は、到着ロビーで荷物を受け取り、ゲートを出た。
機内で結構眠ったのだが、あまり疲れは取れなかったようだ。
…頭がすっきりせず、体も怠い。
4年前、住んでいた部屋は解約してしまっていた。
帰国に当たって、会社が新しく手配しておいてくれた部屋に帰るには
奈槻は疲れすぎていた…。
”今は…少しでも早く、何も考えずに休みたい…。”
少し考えて、近くにあるホテルで今日は休もうと決めた。

歩き出したその時…。
「…!?」
奈槻は微かに漂う香りに思わず歩みを止めた。
いや、止めたと言うより、その場から動けなくなった。
まるで、何かの呪縛をかけられたかのように。
”この香り…!?”
…忘れられる筈がない。間違える筈がない。
この香りは…自分が、亮介の為だけに調香した、
世界でたった一つしかない、彼だけの香水なのだから…。
”でも…どうして…!?…来ているはずがない…!ああ、でも…!”
奈槻は香りの源を探そうと辺りを見回した。
「…おかえり、奈槻」
後ろから、声がした。
”ああ……間違いない…!”
振り向くと、亮介が立っていた。
4年前と変わらない、優しい目が、まっすぐに奈槻を見ていた。
さまざまな感情が込み上げてきて、奈槻は泣きそうになった。
「…亮…介…!?」声が震えているのが、自分でも分かった。
「…何て顔してるんだよ?幽霊でも見たような顔して。」
「どうして…?今日帰って来るって…分かったの?
…それに、ワシントンに行ったんじゃ…。」
「新聞記者の情報収集力を甘く見るなよ?…この後、何か予定ある?」
奈槻は首を横に振った。
「…部屋に帰るのか?」もう一度、首を横に振った。
「今日は…どこか、近くのホテルにでも泊まろうかと思って…」
「…そうか。一緒に、食事でもしないか?」奈槻は小さく頷いた。
亮介は少しほっとしたような表情で、奈槻のスーツケースを持ち、
突然の再会に驚き、まだ呆然としている奈槻の手を引いて歩き出した。

奈槻は亮介に連れられて、空港近くのホテルにチェックインした。
軽い食事を済ませる頃には奈槻も落ち着きを取り戻し、
亮介も奈槻の知りたい事を話した。
亮介はあの後、予定通り単身ワシントンに発った。
そして、奈槻よりひと足早く、今年の春に帰国したのだ。
…奈槻のことは、片時も忘れることはなかった。
帰国してまもなく、彼女の勤めるブランドが新しく出した香水が
フランスで賞を受賞したと聞いた。
その作者が日本人女性だと言うことも。
そして…その香水につけられた名前は『忘れられないひと』と言う意味のフランス語だった…。
それを聞いた時、亮介はその作者が奈槻だと、すぐに確信した…。
その香水が夏に日本でも発売される事になり、問い合わせをしたら、
奈槻が帰国する事が分かったのだ。
「そうだったの…。あの…その…。」
「…続きは、部屋で話さないか?」

エレベーターの中で、亮介は、奈槻の手を取って、強く握った。
奈槻は一瞬、はっとして隣に立つ亮介を見上げたが、
周りに人がいることを気遣って何も言わず、微かに俯いた…。



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