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一ヶ月後、奈槻は亮介に電話をして、会う約束をした。
奈槻の出発予定日は、もう来月の初めまで迫っていた。
奈槻は迷いに迷い、悩み抜いて、とうとう結論を出したのだ…。
「…亮介…ごめんなさい。…私…亮介と一緒には行けない…。」
「……。」
「今諦めたら、きっといつか後悔する…今、このチャンスを逃したくないの…。」
奈槻は、亮介の顔を、目を見ることが出来なかった。
長い沈黙の後、亮介が口を開いた。
「…きっと、奈槻はそう言うと思ってたよ。…行って来いよ。」
「亮介…。」奈槻は思わず顔を上げた。
亮介は、少し切なそうに、だが、優しい目で奈槻を見ていた。
「俺の為に、奈槻の夢を諦めさせる訳には行かないよな。…フランスで、頑張って来いよ。」
「でも、亮介は…?」
「俺の事はいいから。今、結婚しなくても行けるかどうか交渉中だよ。心配するな。」
「……。」奈槻の顔が、今にも泣き出しそうに歪む。
「そんな顔するなよ。奈槻は、これからのことだけ考えるんだ。
滅多にないチャンスなんだろ?頑張って夢を実現させて来いよ。」
「亮介…!」
奈槻の瞳から、涙が溢れて零れ落ちた。
「…馬鹿、泣くなよ。行く前から泣いてどうするんだ。」
「ごめんなさい、本当は亮介のそばにいたい…。でも…私…私…!」
苦しい選択だった。幼い頃からの夢と、誰よりも大切な愛しい恋人と…。
どちらも大切な存在で…。
夢も何もかもかなぐり捨てて、亮介の腕の中に飛び込んでしまいたい…とも、思った。
だが…奈槻は捨てきれなかった。
…今、手を伸ばせばすぐに届きそうな所まで近付いている夢を…。
…この選択が、正しいのかどうかなんて、分からない。
だが、奈槻は選んでしまった。もう、後戻りできない道を…。
「…分かってるよ。」
亮介は泣きじゃくる奈槻を抱きしめた。
奈槻の華奢な体が、震えていた…。
亮介には薄々とだが、奈槻の選択が予想できていた。
フランス行きの話が奈槻の口から出た時から、恐らくこうなるだろうと、思っていた。
奈槻が自分との結婚ではなく、届きかけている夢の実現を選ぶだろうことを…。
分かっていたけれど、一縷の望みをかけて、ワシントン行きの事を奈槻に話した。
もしかしたら…と、気持ちの奥底で、僅かに期待しながら…。
高校で出会って以来、今までだてに九年間も一緒に過ごして来た訳じゃない。
奈槻の夢も、彼女の性格も、分かり過ぎる位分かっている。
決意しながらも、何処かで迷っている奈槻の背中を、今回も亮介は後押しした。
このまま奈槻を腕の中に引き止めておきたい気持ちを必死で抑えながら…。
その夜、二人は今までで一番激しく抱き合った。
互いの全てを記憶の中に刻み込むように激しく…。
亮介の激しい愛撫に、奈槻は我を忘れさせられた…。
何度上り詰めても、終わらない快楽に、奈槻は理性も自制心も失った。
もう、何度目かさえも分からなくなった絶頂を迎え、亮介の背中に爪痕を残した後、
奈槻が半ば気を失うように眠りに落ちた。
亮介は奈槻を背後から強く抱きしめた。
小さなほくろの一つすらない奈槻の白い背中に、強く口づけて、跡を残した。
そのまま、亮介も眠りについた。
二人で過ごした最後の夜だった…。
翌朝、奈槻は眠っている亮介の枕もとに、一通の手紙を残して、先に部屋を出た。
奈槻が出て行ってすぐに、亮介が目を開けた。
奈槻が先に起きていたのは気づいていた。
だが、亮介は眠った振りをしていた。
起きて、奈槻の顔を見たら、今度こそ本気で引き止めてしまいそうで…。
奈槻が残して行った、枕もとの手紙に目を通す。
『亮介へ。 絶対に夢を実現させて来ます。…ありがとう。奈槻。』
短い手紙だった。
奈槻は、考えに考えた末に、この短い手紙を残していったのだ。
他に何か書こうと思えば、言い訳か、泣き言になりそうだったから…。
それは、自分の気持ちを抑えて奈槻を送り出そうとしてくれている亮介に対して、
言ってはならない事だと、奈槻は考えたのだ…。
そして、封筒には亮介の香水のレシピが同封されていた。
そのレシピをもとに、調香をしてくれるところも、書き添えてあった。
もう、自分がその香水を調香する事はできないけれど、
この香りを気に入ってくれた亮介のために、奈槻はレシピを残して行った。
亮介は、手紙を握りしめた。
「…っ!!」
”行かせたくなかった…ずっと、あのまま、俺の腕の中に閉じ込めておきたかった…!”
物分りのいい男でなんて、いたくなかった。
自分のそばにずっといて欲しかった。
無理やりにでも、ワシントンに一緒に連れて行きたかった…。
だけど、奈槻から夢を取り上げるような真似も、諦めさせる事も、亮介には出来なかった…。
奈槻がどれだけその夢を大事にして、実現に向けてどれだけ頑張ってきたか、
自分が一番よく知っている。
その夢を奪うようなことを、出来る訳がなかった。
亮介は、スーツの上着のポケットに手紙をしまい、身支度を整え始めた…。
そして1か月後、奈槻はフランスへと出発した…。
亮介は、見送りには行かなかった。
前日に電話で少し話しただけだった。
見送りに行けば、きっと自分は空港から奈槻を連れ戻してしまいたくなる…。
自分も奈槻も、辛い気持ちになるだけだと、分かっていたから…。
奈槻は、機内で離陸を待っていた。その手の中に、小さな壜を握りしめて。
壜の中身は、亮介のために、初めて調香したあの香水だった。
そろそろなくなる頃だと思って、準備しておいた物だった。
…渡すことは、出来なかったけれど。
渡すことが出来なかったそれを、奈槻は持っていく事にした。
挫けそうになった時の戒めと、お守りの代わりに…。
離陸を告げる機内アナウンスが流れた。
飛行機は、ゆっくりと滑走路を走りはじめた。
どんどん加速し、機体は完全に地上を離れた…。
”…行って来ます…亮介…。”
奈槻を乗せた飛行機が、定刻どおりに空港を飛び立ったその同じ頃…。
亮介は社の屋上にいた。
空を見上げると、はるか上空に、飛行機が一機飛んでいた。
それが、奈槻の乗っているものかどうかなんて、分からなかったけれど。
”そろそろ時間だな…。”
クロノグラフは、ちょうど飛行機の離陸時刻を指していた。
「奈槻…頑張って来いよ…」亮介は空に向かって小さく呟いた。
高校で出会って、9年…これが、二人の分岐点だった…。
片翼をもがれたような気持ちだった。
亮介にとっても、奈槻にとっても…。