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奈槻は浅い眠りから目を覚ました。
腕時計を見ると、夜の11時を少し過ぎた所だった。
日本に到着するのは、明日の夕方の予定だった。
…まだ先は長い…。
眠りから覚めた直後のせいか、少し肌寒さを感じた。
奈槻は近くを通りかかったフライトアテンダントにコーヒーを頼んだ。
さほど待つことなく運ばれてきた熱いコーヒーを少しづつ飲みながら、
奈槻は窓の外を見た。
窓の外は一面の雲景色が見えるだけだった。
日本に帰るのは4年振りの事だった…。
自分で望んでの海外転勤とは言え、やはりこうして日本に帰国できるのは
嬉しく、そして、とても懐かしい気持ちになる…。
だが、それと同時に、微かな痛みと複雑な気持ちも、奈槻にもたらした。
帰国が決まった時、奈槻の頭に真っ先に浮かんだのは…。
”彼は…今頃、どうしているのだろう…?”と言う思いだった…。
…多分もう、彼には会えないだろうけれど…。
4年前、奈槻は自らその資格を放棄したのだから…。
奈槻は、幼い頃から香水などの香りに魅せられて、
将来の進路を決める時、調香師への道を選んだ。
そして、念願が叶い、ある外資系の化粧品メーカーに入社することが出来て
香水の開発に携わるようになった。
仕事は忙しく大変だったが、毎日大好きな香りに包まれて、
奈槻は充実した日々を過ごしていた。
…そんな奈槻に、最大の転機とも言える、大きなチャンスが訪れた。
フランスにある本社への勤務の話が舞い込んだのだ。
期間は最低でも三年。
…願ってもいない大きなチャンスだった。
入社した時から、一度は行ってみたいと思っていた。
だがそれは奈槻の経歴等から考慮して、最低でもまだ2、3年はかかると思っていた。
それが今、叶おうとしている…。
巡って来たこの絶好のチャンスを、逃したくない。
だが…奈槻には、一つだけ、でもとても気がかりなことがあった…。
”亮介は…何て言うだろう…?”
奈槻には、学生時代からの恋人がいた。
間宮亮介と言う同じ年の、誰よりも奈槻の夢に理解を示し、
進路を決めるときも、あまり一般的な職業ではないと言う理由で
両親に反対されて迷っていた奈槻の背中を後押ししてくれた、
優しくて、でも時に厳しい、奈槻の最大の理解者であり、頼れる恋人だった。
だから、今回のフランス行きの事を彼に相談したくて、
奈槻は早く仕事を切り上げ、彼との待ち合わせ場所に向かった。
亮介と会うのは久しぶりだった…。
亮介は大学を卒業した後、新聞社に入社していた。
高校の時から新聞記者を志望していて、毎年数十倍とも言われる倍率を誇る難関の
大手新聞社の試験をくぐり抜けて採用された。
そう言う意味では奈槻と同じく、夢を実現させたと言えるだろう。
どちらも時間が不規則な職業で、二人とも仕事にのめり込むタイプなので、
最近では、一ヶ月に一度会えるかどうか…と言うことも珍しくはない。
だが、だからと言って気持ちが冷めて来たと言うのではない。
逆にそう繁く会えない分、会った時は…。
”きっと、今日も…。”
そこまで考えて奈槻は赤面した。
”やだ、私…。”
「奈槻?おまえ一人で何赤くなってるの?」
「亮介!?」
いつの間に来たのか、亮介が隣に立っていた。
「…よっ、何かやましい事考えてただろ?」
「か、考えてないわよ、そんな事!」
考えていたことをずばり指摘されて、奈槻は思わず大きな声で言い返していた…。
行きつけのイタリアンのレストランで食事をした後、
二人はいつものようにシティホテルにチェックインして、
部屋でルームサービスを取り、軽く飲み直した。
奈槻は甘いカクテルを少しずつ飲みながら、亮介にフランス行きの事を話した。
亮介は、無言で話を聞いていたが、やがて困惑の表情を浮かべた。
「…亮介?」
「参ったな…。」
「え?」
奈槻は亮介の反応に戸惑った。
「…俺、来年の春から、ワシントン支局に行くこと、打診されてるんだ。」
「ワシントン…!?」
「うん…で、条件が一つあって…。」
「条件?」
「…奥さん同伴ってのが転勤の条件なんだ。」
「奥さんって…。」
「俺、奈槻しか考えられなかったし、今日、その事を相談しようと思ったんだ。」
「…。」
二人の間に長い沈黙が流れた。
まさか、同時期に海外転勤の話が持ち上がるなんて…。
その夜、二人は結論を出すことはしなかった。
無理に結論を出そうとするのは、どちらかが自分の夢を諦めることを意味する。
それはどちらも譲れない夢であり、でも、相手の夢も理解できるから、
無理に我を通すことも出来ない…。
二人はその相反する思いから逃れるように、
どちらからともなくベッドに逃げ場を求めた。
単に結論を先送りしただけだと、二人とも分かってはいた。
こうして体を重ねても、答えなんて出ないことも。
こんな気持ちで抱き合った事は今までになかった。
そのせいか、二人とも、どことなく満たされないまま、終わってしまった。
行為の後も、釈然としない気持ちは残った…。
翌朝も、二人ともその話題には触れず、少し気まずい気持ちのまま
ホテルをチェックアウトして、それぞれの勤務先に向かった…。