「やっばーい、遅れちゃう!」
桜はバスを降りて学校までの道を走っていた。
走りながらふと、今日が何曜日だったか考える。
”…あ、まずい!”
今日は金曜日。風紀のチェックが玄関前で行われている日だ。
また風紀委員長の淳と鉢合わせてあれこれ言われるのは面倒くさい。
あの反省文を書かされた一件の後、桜は顔と名前を淳にしっかり覚えられてしまったようで、
事あるごとに名前を連呼されて何かとチェックされるようになってしまっていた。
この間も、お昼に学食でばったり淳と顔を合わせてしまい、
その時も服装にちょっとした違反があって、しっかり説教をされてしまったのだ。
それで桜は、淳と顔を合わせるのがいやで、極力その機会を避けるようにしていたのだ…。
別に、彼を避けなくても、服装について淳に言われる前に、何も言われないように
気をつければいいだけのことなのだが…。

桜は途中で学校の裏門への道にルートを切り替えた。
裏門の近くに、一か所フェンスが外れて、誰にも見つからず入れる所があるのを、
桜は入学する少し前に兄の朔に教えてもらって知っていた。
そこから入ればあの風紀委員長と顔を合わせることはなくて済む。
何もそこまでしなくても…とは思うのだが、あんまり彼とは顔を合わせたくない。
第一印象のせいもあるのだろうが、桜はどうにも淳が苦手だった。
兄の朔も厳しい時は厳しいが、朔に反発しようと思った事は一度もない。
朔は決して感情的にとか、威圧的に桜を怒ったりはしない。
桜が納得できるまで、きちんと理路整然と諭してくれていた。
だからこそ桜も、朔の言う事だけはきちんと聞くし、反発しない。
”なのにあいつは…。”
初対面でいきなり髪を引っ張ったり、人のことを『おまえ』呼ばわりする…。
今まで、そんな男は、周りにいなかった。
『顔は可愛いのに、損してるぞ』突然、淳の言葉が頭に浮かんだ。
”…な、何で!?突然こんな…!何であいつの言葉思い出したりなんか…!”
顔が思わず熱くなる。
「これって……なんで…?」
思わず立ち止まりかけたが、ふと時計を見るともう遅刻寸前だった。
「やば…ホントに遅刻しちゃう…!」
桜は再び走るスピードを上げて、その事について考えるのをやめた。





「…うそー!?なんで直っちゃってるのよ…!」
朔から教わっていたその場所は、外れたフェンスが太い針金で括りつけられて、修理されていた。
春休みの内に、外れている事に気が付いた用務員さんが修理してしまったのだが、
卒業した朔にも、今年入学した桜にも、当たり前ながらその事は分からなかったのだった…。
”…でも、まぁ…この位の高さなら乗り越えられないこともないか…。”
桜はまず鞄を勢いよくフェンスの向こう側に投げ入れた。
「さて…と」
そして、辺りに人がいないことを確認して、フェンスをよじ登りはじめた。
あとは降りるだけ…になった時、不意に声が聞こえた。
「…いつまでたっても登校して来ないと思ったら…こんな所から登校か?」
「…え!?…きゃああっ!」
桜はいきなり聞こえてきた淳の声に驚いて、フェンスの上でバランスを崩した。
「…うわっ!危ない!!」
バランスを崩した桜の体が傾ぎ、フェンスから落下して来た。
淳は咄嗟に腕を出し、桜を受け止めたが、衝撃が大きかったせいで、
桜を抱えたまま地面にしりもちを付いた。
「…い…ったーい…!」
「それはこっちのセリフだ!痛てて…!」
「何よ!いきなり声なんかかけて驚かすからでしょう!?」
「こんな所からこっそり登校しようとする自分は悪くないのか?」
「…っ!」
それを言われると桜に返す言葉はなかった。
「…怪我、してないか?」
「え…?ああ、うん、大丈夫…みたい…」
「そうか…じゃあ、悪いんだが…早く俺の上からどいてくれるとありがたいんだが?」
そう言われて改めて自分の置かれている状態を確認すると。
淳の上にもろに馬乗りになるような体勢だった…。
しかも、スカートが少しめくれて、太ももの辺りが見えて…。
「…え!?……いっやーっ!」
桜は慌てて淳の上から跳び退るように身を引いて、スカートを直す。
「いやーっ!…もう!信じられない!もっと早く言ってよ!!」
「いや…って言うか、普通すぐ気付くだろ…」
「…まさか…わざと言わなかったんじゃないでしょうね!?」
「ば…バカか!?なんで俺がそんなことしなきゃならないんだ!!」
「分かんないわよ!!男なんてみんなそんなもんだろうし!!」
「…男なんて…ねぇ…おまえの大好きな兄貴だって男なんだけどな」
「なっ…!お兄ちゃんはそんなんじゃないわよ!一緒になんかしないでよ!」
「おまえ、本当にブラコンなんだな…そんなんじゃ、兄貴に彼女なんか出来た日には…」
パシッ!!と、小気味いい音が響いた。
桜が淳を引っぱたいたのだ。
…避ける暇もなかった。
「何も知らないくせに…!知ったかぶって変な事言わないで!!」
桜は鞄を掴んで走り去った。
あとに残された淳はただただ呆然としていたが…ふと、我に返った。
「な…なんで俺が引っぱたかれるんだ!?」
憤慨したものの、当の桜はすでに走り去ったあとで、淳は行き場のない怒りを 持て余すしかなかった…。

桜は走りながらさっきのやり取りを後悔していた。
”仮にも先輩を、引っぱたくなんて…。何てことしちゃったんだろ…。”
それに…。
”助けてくれたのに…お礼も言えなかった…。”
でも、兄の事を悪く言われるのだけは我慢できない。
”お兄ちゃんがどんな人かも、知らないくせに…!”
「…何も、知らないくせに…!」
知らないのは当たり前だ。自分は淳に何も話してなどいないのだから。
淳に当たるのは筋違いだということも痛いほど分かっている。
だけど、兄のことを持ち出されると、冷静になれない。
これではブラコンと言われても、否定できない…。
引っぱたいたのはやり過ぎだった。
「…やっぱり、謝った方が、いいよね…」
今から戻って謝ろうかと思ったが、もうすぐ始業のベルが鳴る。
”今度会ったら…謝ろう…。”
桜はそのまま玄関に入り、上履きに履き替えて教室に向かった。
…さっきのやり取りを、数人の人物に見られていたことに気づかずに…。





その日の昼休み。
桜は学食で淳の姿を探したが、今日は淳は学食には来ていないようだった。
いつも淳が一緒に食事をしているクラスメートらしき先輩たちも、今日はいないようだった。
多分、教室かどこかで彼らと一緒に昼食を食べているのだろう。
桜はそう考えて、ハッとした。
”何であたし…そんな事まで分かるようになってるんだろう…?”
苦手な筈なのに、気がつけば行動パターンまで把握できるようになって来ている。
顔を合わせれば服装や校則がどうのと言われて、いつも一触即発の言い争いになるから
顔を合わせたくないと思うのに、今日のように、淳がいなければいなかったで気になる…。
この気持ちは何なのか…?
”…なんか、すっきりしないなぁ…。”
何故、こんな気持ちになるんだろう。
淳のことを考えると、気持ちが苛立つと言うか、平常心でいられない。
今まで、こんな気持ちになったことはなかった。
どうして、こんな気持ちに悩まされなきゃならないのだろう?
「…桜?どうしたの?全然食べてないじゃない」
一緒にお弁当を食べていたクラスメートに指摘され、桜ははっと我に返った。
「…あ、ううん、何でもない」
桜は残りのお弁当を急いで食べ終えて、缶の紅茶を飲んで一息ついた。
そして、次の時間の教室移動に備えてそろそろ教室に戻ろうか…。
と思い、席を立ったその時だった。
「…ねぇ、河瀬桜って、あなたでしょ?」
数人の女子生徒が桜の行く手を阻むように立ちはだかった。
ネクタイは深緑。全員二年生だった。
「…そうですけど、何か?」
「ちょっと話があるのよ。一緒に来てくれない?」
どう見ても、好意的なお誘いじゃないのは明白だった。
表面上は穏やかなのだが、目が笑っていない。
桜は見覚えのない先輩からの言葉に眉をひそめたが、すぐに相手の正体に思い当たった。
深緑のネクタイ…淳と同じ学年の女子生徒…。
多分、彼女たちが、以前に夕香里とさやかの言っていた淳のファンクラブとか言う集団なのだろう。
「…お話ならここで伺いますけど?」
「ここじゃちょっとね。そんなに時間は取らせないから、一緒に来てくれる?」
表面上は穏やかだが、人数と年上であることにものを言わせた有無を言わせない口調。
桜が、もっとも嫌いなタイプとする相手だった。
「…分かりました。…夕香里、ごめん、悪いけどこれ一緒に教室に持って行っておいて貰える?
…それと、5限目に間に合わないようだったら、先生にうまく言っておいて」
桜は持っていた弁当箱の包みを夕香里の前に置いた。
「…あ、う、うん、分かった」
そして、桜は彼女たちと一緒に学食を出て行った。
「…ねぇ、今のって…アレだよね?」
さやかが夕香里の袖を引っ張る。
「うん、多分。…さやか、江川先輩探して来てくれる?」
「夕香里はどうするの?」
「取りあえず、桜がどこに連れて行かれたか確認しないと。多分、体育館裏辺りだと思うけど。
…分かったらメールするから、なるべく早く先輩探して連れて来て」
「うん、分かった」
夕香里とさやかは急いで学食を出て行った。
他のクラスメートは何が何だか分からない様子で、彼女たちを見送った。





「…あーあ、まさか本当に高校に入ってまで桜を止める羽目になるとはね…」
昼休み、大勢の生徒たちで賑わう廊下を急ぎ足で通り抜けながら、夕香里がため息をついた。
あのくらいの人数は、桜の敵ではないだろう。
夕香里とさやかが心配しているのは、相手の先輩たちの方である…。
桜の忍耐力が切れた時、無事で済まないのが相手の方であるのは、火を見るより明らかだ。
…何しろ、桜は空手、合気道、柔道全てにおいて有段者の兄・朔に
小さい頃から護身術代わりにと空手をみっちり仕込まれているのだ。
中学に入ってからは合気道まで兄に習い始めている。
道場に通っている訳ではないので、昇段試験こそ受けていないが、試験を受ければ
間違いなく有段者と認められる位の実力は持っている。
そこらの軟弱な男など、簡単にねじ伏せてしまうだけの力が、桜にはある。
…見かけは至って普通の女の子なので、相手はうっかり油断しやすいが…。
その桜が切れたら…相手が数にものを言わせても勝ち目はない。
だから、相手の方を心配しているのだ…。
「お願いだから切れないでよ…桜」
中学の時も、こうして何度も夕香里は桜を止めるために奔走してきた。
…『N中学一のじゃじゃ馬』または『N中学の暴れ馬』とまで言われた桜を…。





  HOME  NOVEL TOP  BACK  NEXT