その事件が起こったのは、火曜日の教室移動の時のことだった。

桜は音楽室への移動が苦手だった。
三年生の教室のある階を通らなくてはならないからだ。
淳はこの日のこの時間は体育なので、すれ違いで会えない。
問題なのは、淳の取り巻きの一部の三年女子の集団である。

淳は顔良し、頭良し、スポーツ万能、しかも家は開業医と、
これで女子に人気が出ない筈がないと言うくらい人気者なので、
桜と付き合うことになった時、学校中を大騒ぎ&パニックに陥れた程だ。

だから自然と彼女らの桜への風当たりはきつくなる。
彼が見ていない所で陰湿な嫌がらせを仕掛けられたりしているのだが、
桜は淳には絶対その事を言わなかった。
知っているのは一部の一・二年生の風紀委員だけである。
彼等は嫌がらせがエスカレートしつつある事を心配しているのだが、
桜が絶対に言うなとかたく口止めしているので、言うに言えないのだ。
最近では、靴の中にガラスの破片が入っていたり、
体操着に大量の針が刺してあったりと、手口は古典的だが、
冗談では済まされないレベルまで来ているのに…だ。

桜が淳に一言言えば、淳は何としても犯人を探し出して止めさせるだろう。
なのに桜がそれをしないのは、
受験で忙しくなりつつある淳の手を煩わせたくないと言う気持ちと、
こんなことに負けてたまるかと言う、桜の強気で負けず嫌いで
そして意地っぱりな性格故だった…。
周りはだからこそ桜を心配しているのだ。
桜が何事もないというように平気な振りをしているから
嫌がらせがエスカレートしているのは明白なのだ。
今は持ち物等に対しての嫌がらせだけで済んでいるが、
いつか桜本人に対しての暴力行為にでも発展したら、
いくら桜が強いと言っても、無傷では済まないだろうと
容易に推測出来るからである…。

…そして、今回の騒動は、その意地っ張りな桜の性格が
もろに裏目に出てしまった出来事だった。
桜は三年女子のきつい視線に臆する事なく、毅然と顔を上げて歩いていた。
桜のそばには同じクラスの男子の風紀委員とその友達がいた。
桜は知らなかったが、教室移動の時が一番危ないと言うことで、
事情を知っている風紀委員は、桜に気付かれないように、
何かあってもすぐに対処出来るように、近くにいるのだ…。

淳が表面上はブツブツ文句を言いながらも、
桜にべたべたに甘いのは周知の事実である。
それを知っている風紀委員たちは、桜本人には気づかれないように
桜をガードすると言う役割を自発的に買って出ているのである…。
桜の希望で事情こそ淳に内緒にしてはいても、
もしも桜に何か、万が一のことが起きようものなら、
淳が何事もなかったかのように見過ごすはずがない。
また、そうなった時の淳の怒りを恐れていたのだ…。



桜は友達と話しながら廊下を歩いていた。
周りからは突き刺さるような視線が桜に注がれていた。
”…怯むな…こんなの平気なんだから。”
「…っ!」
桜はいきなり足を引っ掛けられて転びそうになった。
かろうじて堪えたので、転びはしなかったが、
持っていたテキストや、ノート類を落としてしまった。
拾おうとした桜の手を、笑いながら踏み付けた女がいた。
「あら、ごめんなさいねー?這いつくばってるから気がつかなかったわよ。」
口先だけ謝りながら、桜の手を踏む足を退けるどころか、更に体重をかけてくる。
友達はおろおろして、でも表立って止めることは出来ずにいた。
何と言っても、相手は腐っても上級生である…。

だが桜は…怒りを抑えることが出来なかった。
”もう頭来た…!”
連日の嫌がらせに苛立っていた桜がついにキレた。
空いた左手で相手の女の足を掴み、思いっきり引っ張った。
相手は呆気なくあお向けに倒れた。
短いスカートがめくれ上がり、皆の前で派手な紐パンを晒す格好になった。
「…何すんのよ!」
「何すんの!?それはこっちが言いたい事よ!
人が黙ってりゃ調子に乗ってやりたい放題やってくれて…!
そんな陰湿なことしてるから男の一人も出来ないのよっ!」
キレた桜の言葉は廊下中に響き渡った。
「な…何よ!その口の利き方は!」
「こんな時だけ上級生ぶらないでよね!
あたしは尊敬できる人しか先輩とは認めないのよっ!
あんたみたいな卑怯な女なんか先輩だなんて思えないわよ!」
キレた桜のタンカは絶好調のようで、留まる所を知らなかった。
「この…っ!」
桜は振り上げた女の手をかわし、逆に顔目がけて正拳突きの要領で拳を繰り出す。
…顔面スレスレの所でピタリと止めた。
空手有段者の兄に護身術がわりに稽古をつけて貰っているのが意外な所で役に立った。
彼女はへなへなとその場に座り込んだ。
口は達者でも、桜の敵ではなかった。

その時だった。
「桜!」
人だかりをかき分けて淳が駆けつけた。
例によって後輩に報告を受けてやって来たのだ。
パシンッ!と桜の頬が音を立てた。…淳が桜を叩いたのだ。
「……!?」
「…いい加減にしろよ、桜。毎回呼ばれる俺の身にもなってくれよ。」
「そんな!!江川先輩、桜は悪くないのに…!!」
一緒にいた風紀委員が抗議の声を上げるのを桜は遮った。
「…余計な事言わなくていいから。」
「…だけど!」なおも言い募る彼に桜はきつい視線を向けて黙らせた。
「…いいから!」
桜はテキストを拾い、淳の方を見もせずにその場を立ち去った。



桜が去った後、風紀委員は淳に抗議した。
「あんまりですよ!江川先輩!あれじゃ桜が可哀想すぎます!
理由も聞かずにいきなり叩くなんて!
…桜が今まであなたの取り巻きに悪質な嫌がらせをされていたのも
知らなかったくせに、桜だけ責めるのは筋違いです!」
「…何だって?」
そんなことは初耳だった。
「今の騒ぎだって、その人が桜の足引っ掛けて転ばせようとした上に、
わざと桜の手を踏み付けたから…。」
「…嫌がらせって、本当なのか?」
「毎日のように靴にガラスの破片入れられたりとか…
体操服に針を仕込まれたりしてましたよ!!
…桜は先輩には絶対言うなって言って、口止めしてましたけど!」
「…何で口止めなんか…。」
何故、桜は自分に言わなかったのだろう…。
言ってくれれば、そんな嫌がらせなんか、犯人を見つけ出してすぐにやめさせたのに。
「そんなの…決まってるじゃないですか!
桜は先輩に迷惑をかけたくなくて…先輩受験準備で忙しいから、
手を煩わせたくなくて黙っていたんじゃないですか!」

淳は座り込んだままの同級生を見た。
気まずそうに目を逸らすのが、何よりの証拠だった。
淳は彼女を冷ややかな視線で見下ろした。
「…もし今後、桜に何かしたら…。ただじゃ済まさないから。覚えといて。」
彼女の顔色がさーっと青ざめた。
それきり、彼女には見向きもせず、淳は後輩に言った。
「…悪かった、教えてくれてありがとう。」
「…いえ、謝る相手間違えてます。」
憮然とした表情で答える後輩に淳は言った。
「桜には、後でちゃんと謝るよ。」
淳のその一言で、この騒動は収まる筈だった。



…その同じ頃…。
桜は授業に出る気さえなくして、一人になれそうな所を探して歩いていた。
”先輩が怒るところなんて…初めて見た…。”
今まで、どんなに桜が暴走しても、怒ることなんてなかった淳が初めて怒った。
しかも…叩かれるなんて思わなかった。
いつも、しょうがないなって感じで、仲裁に入ってくれていた。
”迷惑だったんだ…。”
思わず、泣きそうになった、その時。
「…!!」桜は、頭にガツン!と激しい衝撃を感じた。
そして、そのまま倒れこんだ。
”なっ…!?”声を上げる間もなく、桜は意識を手放した。
「…へっ、案外呆気なかったな。」
「…おい!早く運ぶぞ。」
気を失った桜を担ぎ上げたのは…
先日桜と淳にやりこめられたあの問題児二人組、長谷と宮城だった…。
桜の身に、最大最悪の危険が迫っていた…。



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