7 Forget me not



3か月後、由菜の退院が決まった。
怪我した場所が場所だけに、貴司の時より後遺症の残る可能性があったが、
幾つもの検査の結果、その不安は解消された。
退院の日は、貴司が仕事を休んで迎えに来た。
由菜は自分の為に仕事を休んでまで貴司に来て貰うことをためらったが、
強引に押し切られてしまった。
長い入院生活だったので、いつの間にかかなり増えてしまった荷物を
どうにかまとめたバッグを、貴司が自分の車の後部座席に乗せる。
貴司は助手席のドアを開けて、由菜を乗せて、ドアを閉めた。
そして、車は病院を後に、走り出した。

車に乗って、しばらくの間、二人は最低限の会話しか交わさなかった。
別に、話したくない理由があるわけではない。
ただ、由菜が意識を取り戻してから、二人とも、何をどう話していいのか、
よく分からなくなっていた。
…特に由菜の方が、戸惑う気持ちは大きかった。
貴司が退院して、まるで入れ替わるように今度は自分が事故に遭い、
意識不明の重体に陥り、入院を余儀なくされて、
   その間に貴司は記憶を取り戻した。
だが、由菜はそのことを当然知らなかった。
目覚めてみたら、全てを思い出した貴司がいて…。
自分が眠っていた間のことを周囲の人たちから聞いたが、
状況の変化に、由菜の気持ちは付いていけなかったのだった。

「…道が、違うけど…どこに行くの…?」
周りの景色が、見覚えのない景色なのに気が付いた由菜が、貴司に聞いた。
てっきり、由菜は自宅に送ってくれるものと、思っていたのだが…。
今、車が走っているのは、由菜の家に向かう道でも貴司の家に向かう道でもなく、
見覚えのない道路だった。
「うん、ちょっとな…。」
「……?」
やがて、車は、見たこともないマンションの駐車場に入った。
貴司は、空いている駐車スペースに当然のように車を入れ、エンジンを止めた。
「着いたよ。」
「着いたよ…って…。ここ、どこ…?」
「…いいから、とりあえず降りて、行ったら分かるから。」
貴司は由菜の荷物を持ち、エレベーターの方に由菜を連れて行った。
10階のボタンを押し、ドアが閉まった瞬間、
貴司は由菜の鞄を床に置き、その腕で由菜を抱き寄せた。
「…貴司!?…ん…っ!」そのまま唇が塞がれる。
驚いて頭を振って貴司の唇を離そうとしたが、
背中に回されていた手が、由菜の後頭部を押さえて、動きを封じた。
そのまま壁に押し付けられて、体も動かせなくなる。
でも、そうされなくても、由菜はもう、抵抗できずにいた。
力が抜けて、支えを探して彷徨う由菜の手が、貴司の服の袖を掴んだ。
強く、強く、縋りつくように。
目的の階についたことを知らせる電子音が鳴った。
由菜ははっと、我に返った。耳まで赤くなり、熱くなるのが自分でもわかった。
「こっちだよ。」貴司が、由菜の手を取って歩き出した。



貴司は、ひとつのドアの前で立ち止まり、ポケットから鍵を出した。
鍵穴に差し込み、ドアを開けた。
「…入って。」
「入ってって…ここ…?」
「ウィークリーマンション、借りたんだ。
少しの間でいい、時間が欲しいんだ。由菜と一緒にいられる時間が。」
「…ど…うして?」
「座ってて、コーヒーでいいか?」
「貴司、ちょっと待って…質問に…」
「ちゃんと話すから、取りあえずちょっと落ち着こう。」
少しして、貴司が、コーヒーを淹れて、戻ってきた。
そのコーヒーの入ったマグカップを見て、由菜が目を瞠る。
「このカップ…どうして、ここにあるの?」
それは、由菜が家で使っていた、お気に入りのカップだった。
間違えるはずがない。貴司と二人で旅行に行った時に、
二人で互いのために選んだものなのだから。
…でも、これは家にあるはずだった。
「俺たち、俺が事故に遭ってから、ちゃんと向き合って話す時間、取れずにいたよな?」
「……。」
「だから、由菜と一緒にいられる時間が欲しかった。
二人だけで、いられる時間が欲しかった。
由菜の両親にも、俺の両親にも、ちゃんと了解は取ってある。」

貴司は、由菜のすわるソファーの前に移動する。
その前に膝をついて、少し下から、由菜の目を真っ直ぐに見つめた。
由菜は、真っ直ぐな貴司の視線に耐え切れず、目を逸らしてしまう。
貴司は、由菜の手をそっと握った。
「由菜、俺に、言いたいこと、いっぱいあるよな?
…俺が、由菜の事を忘れていた間も、由菜は俺の事、一度も責めなかった。
何も言わないで、それでもずっと、傍に居てくれた。」
「…やめて…。」
言い出せば、貴司を責めるだけになる。
貴司を責めるべきことではないと、由菜は今まで自分に言い聞かせてきた。
貴司は、由菜が今まで言えずに溜め込んで来た思いを、全て吐き出させようとしていた。
今まで、由菜が、おそらく自分を気づかって言えないでいたことを…。
それは、貴司にとっても、由菜にとっても、痛みを伴うことであるのは明白だったけど。
このままお互い傷に触れないように、
何事もなかったかのように、見ない振りをして逃げていては、
結婚したとしても、うまくはいかないだろうと思ったから。
不可抗力とは言え、今回のことで、どれだけ由菜を傷つけたことか…。
…体のリハビリは充分過ぎるくらいしたけれど、心のリハビリは、まだ充分じゃない…。
だから、荒療治かも知れなかったけれど、こうして、二人きりになれる環境を作った。
このことを提案した貴司に、渋った双方の両親に何度も何度も頭を下げ、
半ば強引に押し切って、ここを借りた。
結婚する前に、由菜の不安を後顧のないものにしておきたかったから…。



「…由菜。もう、自分の中に何もかも溜め込まなくていいんだ。
全部、言っていいよ。俺に言いたいこと、全部。」
由菜は俯いて首を振る。
「…言いたい事なんか、ない…。」
「…じゃあ、俺の目を見て、今の、もう一度言って?」
「……。」
「…由菜。」俯いて、かたく目を閉じて、
頑なに自分を見ようとしない由菜の頬に手を当てて上向かせる。
少し驚いた表情で、由菜は貴司を見た。
「どうしてそんなに強情なんだか…。ほら、早く白状しちゃえ、楽になるぞ。」
「…貴司…。」由菜の瞳が、一瞬、揺らいだ。
その後、堰を切ったように涙が膨らんで…すぐに頬を伝って滑り落ち、
頬に触れている貴司の手を濡らした。
「…そうだ、由菜。俺が入院していた間、
おまえがずっと飾ってくれた花、あったよな?…あの花の花言葉、分かったよ。」
「…!」
「ありがとな、由菜。…おまえの事一瞬でも忘れた俺を…見捨てないでくれて。」
「た…かし…っ!」由菜が貴司の胸に顔を埋めた。
もう、こらえ切れなかった。
「こわかった…!自分の存在全部否定されたみたいで…!」
「…うん。」
「貴司の事責めちゃいけないって、頭では分かっていても…
どうして!?って…ずっと…思ってた…。」
「…うん。」
「貴司が私の事を、忘れたのも、思い出せなかったのも、
もう、私の事要らないからなんじゃないかって、思った…。」
「要らないなんて、そんな事ある訳ないだろ…。
一度忘れた俺が、言えた事じゃないけど…。
でも、ごめんな。本当に、ごめん。」
「今度、私の事忘れたら…。」
「忘れないよ、もう、二度と。…でも、もし万が一忘れたら…。」
腕の中の由菜が、びくり、と、体を震わせた。
「…忘れたら……もう一度思い出すよ。何が何でも。」
「………。」震える唇が、囁くように、言葉を紡ぐ。
とても小さな声で、告げられたその願いに、
貴司は由菜を強く抱きしめ、キスで返事を返した。

『私を忘れないで。』ずっと言いたくて、言えずにいた願いを…。




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