6 忘れな草に託された想い
翌日、貴司は病院への道を急いでいた。
信号待ちをしている間、一軒の花屋に目がとまる。
由菜の病室には、様々な人たちからの見舞いの花が
いつも絶やされることなく飾られていた。
由菜は、花が大好きだった。常に回りに、花を絶やしたことがなかった。
皆それを知っているから、見舞いには必ず花束を持ってくる。
花瓶が幾つあっても足りないくらいに…。
貴司は、片隅に置かれている小さな花に気がついた。
青い花と、白い花と、色違いの二種類の花…。
”この花…。”
貴司が入院している時、由菜はこの白い花をかかさず飾ってくれていた。
他の花に比べると、小さい花で地味な花だったが、
存在を主張しすぎない小さく、可憐な白い花が、
貴司の心を和ませてくれたのを覚えている。
「…あの、この花、何て言う花ですか?」貴司は若い女性の店員に尋ねた。
「ああ、それは、忘れな草ですね。」
「…忘れな草…?」
「ええ、他の花に比べれば小さくて、地味な花ですけど、
花言葉がロマンチックなんですよ。」
「…どんな?」
「青の忘れな草は、『真実の愛』
そして、白の忘れな草は…『私を忘れないで』って言うんです。」
「…!!」
貴司は、その時初めて、この花を飾りつづけてくれた由菜の深い思いに気づいた。
由菜は、貴司が記憶を失ったことについて、一言も触れなかった。
その代わりに、ずっと、忘れな草を貴司の元に届けつづけたのだ。
忘れな草の花言葉に、自分の願いを託して…。
『私を忘れないで』
それは、自分のことを忘れてしまった貴司への、
由菜の、たった一つの願いだったのだ…。
「…すみません、この花、あるだけ全部下さい。青いのも、白いのも。」
貴司は買えるだけ買って来た忘れな草を花瓶に移し、由菜の一番近くに置いた。
由菜は静かに眠り続けている。
頭や体に巻かれた包帯や、体に繋がれている様々な医療機器がなければ、
本当にただ眠っているだけにしか見えない。
「…なぁ、由菜…そろそろ、目を覚まさないか?
おまえがこんなにも長く眠り続けてるのは、
俺が、まだおまえのこと、忘れたままだと思ってるからか…?
つらい思いさせて、ごめんな。…でも、俺、全部思い出したよ。
…もう、何も、心配しなくていいんだ。」
貴司は由菜の手を握った。触れる肌は、こんなにもあたたかいのに…。
その左手の薬指に、貴司はポケットから取り出した指輪をはめた。
二人の流した血も、感じた痛みも、すべて見てきたあのエンゲージリングを。
人は不吉な指輪と思うかも知れない。
でも、自分はこの指輪のおかげで、失った由菜の記憶を取り戻すことが出来た。
二人の血に染まり、それでも輝きを失わなかったこの指輪を
改めて彼女に贈りたいと思った。
これから先、二度とあんなことのないように、自戒と誓いの意味も込めて。
最初に贈った時は、由菜の指にぴったりだったリングが、
今は、すっかり緩くなってしまっているのが、哀しかった。
…それだけ、由菜が苦悩し、悲しんできた証のように思えた。
「…目が覚めたら、おまえの行きたいところに行こう。
美味しいもの食べて、二人でしばらくのんびりしよう。
…だから…起きてくれよ…。」
貴司は、握った由菜の手を額に押し当てた。祈りを捧げるように。
貴司は無神論者だけど、今は、彼女の目が覚めるなら、世界中のどんな神様に
困った時の神頼みと呆れられても、祈れるような気がしていた…。
…その時だった。握った由菜の手、指先がぴくっ、と動いたような気がした。
「…?」初めは気のせいだと思った。
そうあって欲しいと言う自分の願望が、そう感じさせるのだと思った。
だが…もう一度。
今度は貴司が見ている目の前で、さっきよりもはっきりと指先が動いた。
「…由菜!!由菜、聞こえるか?俺の声が聞こえてるなら…目を開けてくれ!!」
「…どうしました?」
「看護婦さん!由菜の指が、今動いたんです!!」
「…えっ!?本当ですか!?」
「見間違いじゃない!今、確かに、動いたんです!」
そして、二人で固唾を飲んで見守る中…由菜の指先がまた、動いた。
「先生呼んできます!!そのまま呼びかけてあげていて下さい!」
「…由菜!!」
今度は…瞼が微かに動いた。ゆっくりと、でも確かに。
由菜の目が開いた。眩しいのか、何度か瞬きを繰り返す。
その時、医師と看護婦が病室に入って来て、病室内は俄かに騒然としはじめた。
貴司は、医師たちの邪魔にならないように、壁際に後退した。
そんな中、長く声を出さないでいたせいか掠れた声が、貴司の耳に届いた。
「た…かし……?」
少し掠れてはいたけれど、それは確かに、由菜の声だった。
貴司がもう一度聞きたいと、願いつづけた、由菜の声だった…。
彼女の方を見ると、顔をこちらに向けて、その瞳はしっかりと貴司を見つめていた。
「由菜…!」夢じゃないかと思った。でもこれは…夢じゃない。
医師が貴司に由菜のそばに来るように促し、看護婦を下がらせた。
「由菜、俺が、分かるか?」
「貴司…私の、こと…分かる…の?」
「…分かるよ、全部思い出したよ…。 もう、何も、心配いらない…か…ら…。」
貴司は声を詰まらせた。由菜の手に、涙が落ちた…。
それは、貴司が由菜の前で見せた、最初で最後の涙だった…。