5 Memory that returned



「待って、ちょっと待って…!」
貴司は、由菜の腕を掴んで引き留めた。
「…離して下さい。」
そう言った由菜の声は、由菜自身が驚くほど、乾いて、冷え切っていた。
「…俺、何か、気に障ること言いましたか?」
「別に…そんなんじゃありません、早く社に戻らないといけないので…。」
「…俺が、あなたの事思い出せないからですか?」
「…違います!…離して!!」
”これじゃ八つ当たりじゃない…。
記憶が戻らないのは、貴司が悪いんじゃないのに…!
記憶をなくしても、私のこと、気にかけてくれているのに…
何でこんな言い方しか出来ないの…?”
「…ごめんなさい、本当に、急いでますので…。」
「…分かりました。俺こそ、しつこくしてすいません。
それじゃ…また今度の機会にでも。」
「…はい。」由菜は横断歩道を渡ろうとした。
…その時、信号が変わろうとしているのに強引に左折して来た車がいた。
ドライバーが歩行者…由菜に気づくのが一瞬遅れた。
「…!!」
由菜に気づき、慌てて急ブレーキを踏んだが…間に合わなかった。
ガンッ!!と鈍い音がして、由菜の体が空中に跳ね飛ばされた。
急ブレーキの音に振り向いた貴司の目に映ったのは、
跳ね飛ばされ、地面に叩きつけられた由菜の姿だった…。

由菜が首にかけていたネックレスの鎖が切れ、鎖に通してあった
貴司が事故に遭う前、由菜に贈ったエンゲージリングが、地面に転がった…。
堂々と指にはめるのは憚られたが、それでも、身に付けていたくて、
ネックレスに通して、いつも身に付けていたのだ…。

貴司は、由菜のそばに駆け寄った。
「しっかり…しっかりして…由菜さん!!」
由菜は、頭から血を流し、すでに意識はなかった。
「誰か…救急車!!早く…!!」
応急処置の止血をしていた貴司は、由菜のそばに転がる指輪に気づいた。
手を伸ばして、その指輪を拾う。
ハート型のダイヤの、エンゲージリング…。
”これ…!?”その指輪に、貴司は見覚えがあった。



『俺と、結婚して欲しい』
『…はい。』そう、答えてくれたのは…。
”あの時自分はこれを…これを由菜に…由菜に渡した…。”
『二人でもっと、幸せになろうな。』
”そうだ…確かに、俺、そう言った…由菜に…。”

『…由菜…?誰の事…?』
その瞬間の、由菜の信じられないような表情…。
”…思い出した……由菜…!!”
自分の贈った指輪にきっかけを得て、次々に記憶が蘇って来る…。

貴司は、ようやく、由菜の事を思い出した。
だが…由菜の事を思い出したと言うのに、その彼女は…。
貴司の腕の中で、血を流しながら、どんどん冷たくなって行く…。
奇しくも、あの時、由菜が体験した事を、追体験しているかのようだった。

由菜の体が、貴司の腕の中で、温もりを失っていく。
蝋のように白くなって行く、由菜の肌の色…。
これが、何より大切に思っていた彼女を忘れた貴司への、罰なのだろうか…。



由菜の容態は、かなり深刻なものだった。
頭を強打したことにより、頭蓋骨が骨折していた。
そして、それによって頭蓋内血腫を起こしていた。
搬送された病院ですぐに緊急手術が行われたが、由菜の意識は戻らなかった。
その後、日本でも1・2の権威と実績を誇る脳神経外科のある病院に由菜を移し、
再手術することになった。
再手術は成功したが…由菜は目覚めることなく、事故からもう2週間経つと言うのに、
一向に意識は戻らないままだった。
検査の結果に異常は見受けられない。手術もこれ以上ないほどに成功した。
自発呼吸もあるし、心臓も正常に動いている。脳波も安定してきている。
なのに、由菜は目覚めない…。

…その状態のまま、とうとう、1か月が経った。
看護婦たちが、仕事の合間に噂する。
「…505号室の付き添いの方…今日もいらしてるわね。」
「見ていてこっちが気の毒になってしまうわ…。」
貴司は仕事の合間、仕事の後、面会時間が終わるまで
毎日ずっと、由菜のそばに付き添っていた。
深い眠りにつき、何を話しかけても応えのないことは分かっているが、
それでも由菜に、語りかけ続け、触れ続ける。
ばかげた事かもしれないが、続けていれば、いつか由菜が応えてくれるかも知れない。
気の遠くなるほどの、僅かな可能性と分かっていても…
貴司はそうせずにはいられなかった。

その日の面会時間も、終了の時間に近づいていた。
貴司は、由菜の手をそっと握りながら、話しかける。
「…由菜、俺が、おまえを忘れたこと…怒ってるか?
だから、目覚めないのか?…おまえが目覚めたら、許してくれるまで、謝るよ。
いくら謝っても、謝り足りないけど。…だから…頼む、起きてくれよ…。
おまえの笑った顔が、見たいよ。もう一度、俺の名前を呼んで欲しいよ…。」
由菜の手を握る手に、無意識に力がこもる。
「…ごめん、痛いよな。」
その時、面会時間の終わりを告げる放送が入った。
「…明日は、休みだから、朝から来れるよ。また、明日な。」
貴司は、由菜の手を離し、由菜の髪を優しく撫ぜて、病室を後にした。

…貴司が出て行った後、由菜の指先が、ほんの僅かに、動いた。
それは、本当に一瞬のことで、またすぐに動かなくなったが…。




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