3 あなたが私を忘れた日



手術後の貴司はICUの中で、24時間体制の看護を受けていた。
手術後、執刀医から両親に説明があった。
手術は成功したが、まだ予断を許さない状況であること…。
手術中に、貴司の心臓が一時停止して、
脳に酸素が供給されなかった事による後遺症の恐れがあること…。
その後遺症がどういうものかは、今は予測がつかないこと…。
由菜はその事を、目覚めてから、貴司の母から聞かされた。

貴司はそれから2日間、意識不明のまま、ICUでの治療を受けていた。
由菜は寝食も忘れ、ずっと、ICUの外にいた。
貴司の母や、自分の親に促されなければ、時間の経過さえ覚束なかった。

そして、2日後、貴司が僅かな時間ではあるが、意識を取り戻した。
医師の問いかけにも応じ、あとは、身体が回復するのを待つだけとの、
医師からの報告に、貴司の両親と由菜は、心から喜び、感謝した。

ようやく面会が許されたのは、事故から1か月経ってからのことだった…。
個室に移されていた貴司は、身体のあちこちに巻かれた包帯が痛々しかったが、
少しの時間なら起き上がることも出来るようになっていた。
「貴司!…ああ、よかった…!」
「父さん、母さん…ごめん。心配かけて…。」
「いいのよ…こうして無事だっただけで、もう…!!」
「…ところで、そこにいるのは…誰?」
貴司の言葉に、病室内の空気が、凍りついたような気がした。
病室にいたのは、医師と看護婦、貴司の両親と…由菜だけだった。
「…!?貴司…?何を言ってるの?由菜さんに向かって…」
「由菜…誰の事…?」
「!?」医師が慌てふためいて病室から出て行く。
「貴司、悪い冗談はやめなさい、婚約者の由菜さんに向かって、誰?だなんて…!!」
「婚約者…!?俺の…!?母さんこそ冗談はやめてくれよ!俺は…俺は!」
さっきの医師が、他の医師を連れて戻ってくる。
その医師が、貴司にいくつか質問をする。

由菜は、その光景を茫然と見ているしか出来なかった…。
貴司が、自分のことを、忘れてしまった…。
嘘だと、冗談だと、悪い夢だと、思いたかった。
だが、それは、紛れもない現実だった。

…貴司の記憶からは、由菜の事だけが、失われていたのだった…。



様々な検査の結果…貴司の記憶を司る脳機能は、正常だった。
貴司が忘れているのは、由菜に関することだけだった。
その他のことは、きちんと覚えている。
子供を庇って、事故に遭ったことさえ覚えているのに、
その直前まで一緒にいたのが…由菜だと言うことは覚えていないのだ…。
由奈の関わる記憶だけが、欠落していた。
こんなケースは稀だと医師は言う…。
明日思い出すかも知れないし、もしかしたら一生思い出さないかも知れない。
脳の記憶に関するメカニズムの不確かさは、どんな熟練の医師にさえ、
どうすることも出来ない領域なのだ…。

貴司の両親は、泣いて由菜に詫びた。
こんなことになって申し訳ない…と、ただそればかりを何度も。
由菜は、彼のそばにいてもいいかだけ、尋ねた。
もしかしたら、貴司が記憶を取り戻すかも知れない…。
その、かすかな望みを、捨てたくなかった。
自分のことを忘れてしまった相手のそばにいる。
…それが例えどんなにつらく、切ないことであっても…。
それでも、由菜は、貴司のそばにいたかった。
「ごめんなさいね…由菜さんには、本当に申し訳ないことを…。
こんなことを言うのは、身勝手な親のエゴだって分かっているけれど…。
でも、あの子のそばにいてあげて…見捨てないであげて…。」

由菜は貴司の病室を訪れた。
「…あなたは…。」
「あ、起き上がらないで…無理しないで下さい。」
「両親から、あなたが僕の婚約者だと、聞きました。
でも、僕は…あなたのことを憶えていないんです。」
「いいんです…。分かっています。
あれだけの怪我だったんだから、変調をきたしたとしても無理はないです…。」
「申し訳ない…。」
貴司と敬語で話すのは違和感が感じられて仕方なかった。
でも、今の貴司にとって自分は、初対面の人間も同然だった。
貴司を混乱させないために、今はそうするしかなかった…。
「あなたのお母様には、お許しを頂いていますけれど…。
入院している間、お世話させて頂いても、いいですか…?」
由菜の問いかけに、貴司は少し考えて頷いた。
「…ありがとう。お世話になります。」
由菜は、泣きそうになる気持ちをぐっと抑えつけて、 貴司に微笑みかけた。
今つらいのは、大変なのは、自分じゃなくて、貴司の方だ。
…どんなにつらいことでも、貴司のそばにいられるのなら、それでいい…。
由菜は、自分のことを忘れてしまった貴司と、向き合う決意をした…。




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