2 幸せが消えた瞬間
翌朝、二人は一緒にシャワーを浴び、身支度を整えてチェックアウトした。
「由菜、今日は休みだったっけ?」
「うん、ごめんね、私だけ休みで。」
「ゆっくり休めよ、昨日は寝不足だったろうから。」
「…もう、バカ!…貴司こそ、寝不足で仕事、大丈夫なの?」
「俺は鍛え方が違いますから。」
「…がんばってね。」
「…おう!…あ、由菜、今度の休みの日、ご両親に挨拶に伺うよ。…いいかな?」
「…うん、話しておくね。」
「じゃあ、気をつけて帰れよ。」
二人は大通りに出て、それぞれ歩き出した。
由菜はショーウインドウを眺めながら、ゆっくりと歩いていた。
キキキキーッ!!!と、背後から嫌な音がした。
そして、数瞬の後、ガシャーン!!!と言う、何かがぶつかる音が…。
由菜は数歩歩いて振り返った。
”まさか…ね。…でも…!!”
…音が聞こえてきたのは、今さっき、貴司が歩いて行った方向だった…。
由菜はその方向に向かって歩き出した。
次第に、駆け足になる。
嫌な予感がした。でも、気のせいだろうと思った。
きっと、貴司はちょっと鼻歌でも歌いながら、歩いている筈だ。
自分の杞憂なんか、笑ってバカだなって…言ってくれる筈だ。
前方に、人だかりが出来ていた。
「…若い男の人らしいよ…。」
「飛び出した子供を庇って…。」集まった人が囁きあっている。
「ありゃ、ちょっとヤバいかも…。」
由菜は、人をかき分けて、前に出た。
紺色のスーツ、見覚えのある鞄、靴…。
体がガクガクと、震え出す。
「た…かし…?」声が掠れて、うまく出ない。
車道の真ん中に血を流してピクリとも動かず、倒れていたのは…。
「貴司!?…いやぁぁぁぁ…っ!」
由菜は貴司のもとに駆け寄り、流れる彼の血で服が汚れるのも厭わず、彼の体に触れる。
「…しっかりして!…貴司…!!」
救急車のサイレンが、近づいて来ていた…。
貴司を乗せたストレッチャーが、手術室へ運び込まれた。
「付き添いの方はここまでです。ここでお待ちください!」
看護婦に押しのけられて、由菜はよろめいて壁にぶつかった。
”なんで…こんなことになってるの…?”
ほんの数十分前に笑顔で別れた貴司が、今は意識不明の状態で病院に運び込まれている。
”あんなに…血が出てた…体温がどんどん下がって、触っても冷たくて…。”
自分の手と服を見ると、付着した血が乾いて、色が変わり始めていた。
昨日、貴司がはめてくれたエンゲージリングにも、血が付いていた。
それが、皮肉にも、この出来事がウソじゃないことの何よりの証明だった。
「…っ!や…いや…貴司…貴司…!」
”お願い、助けて…誰か、貴司を助けて…!”
「…由菜さん!貴司は…!?」
貴司の両親が駆け寄ってきた。連絡を受けて駆けつけたのだ。
由菜の、大量に血の付着した服にギョッとする。
「…おじさま、おばさま…今…緊急手術中で…。」
「なんてこと…由菜さんにプロポーズするんだって言って、 昨日、あんなに喜んで出て行ったのに…。」
その時、手術室から、慌しく看護婦が出て来た。
「看護婦さん、貴司は…息子は!?」
「落ち着いてください。出血が多過ぎて…。
…今、輸血用の血液が不足していて…手配をする所です。」
「…血…わ、私のを使って下さい!血液型同じです!」
由菜は看護婦に詰め寄った。
「一人分ではとても…足りないと思います、他に心当たりありませんか?」
「私たちのも、使えるなら使って下さい!」両親が申し出る。
「…会社に連絡します。O型の人が、何人かいた筈です。
…大学の友人にも当たってみます!」
由菜は手帳を掴んで公衆電話の所へ走った。
”貴司を助けるためなら、何だってする…! だから、お願い、貴司を連れて行かないで…!!”
数十分後、由菜の呼びかけに応じてくれた者たちが、次々と病院に到着した。
会社の同僚、大学のOB、後輩…。
そして、由菜も採血を受けた。
「…駄目です、これ以上血を採ったら、貴女の体の方が…!」
「…構いません!まだ大丈夫です!だから…貴司を助けて!!」
「…じゃあ、もう少し採りますけど…終わったら充分に休んで下さい、
無理しないで下さいよ。」
…5時間にも及ぶ大手術の末に、貴司は一命を取り留めた。
その報せを聞いた瞬間、限界を超えて採血したためと、
極度の緊張で疲弊しきっていた由菜は、一気に気が緩んで、手術室の前で倒れた…。
…この時の由菜は、まだ知らなかった。
…目覚めた後に待ち受けている過酷な試練を…。