5 雨やどり
そして、数十分後、二人はホテルの一室にいた。
近くに雨やどり出来そうな所と言えば、ここしかなかった。
フロント係は、びしょ濡れの二人を怪訝そうに眺めながらも、
何も言わずにキーを渡してくれた。
「…美紗緒、先にシャワー使えよ。…ほら、早くしないと風邪引くから!」
美紗緒をバスルームに半ば強引に押し込んで、幸平は煙草に火をつけた。
美紗緒は濡れて体に張りつくワンピースを脱いで、シャワーの栓をひねった。
熱いシャワーが、雨で冷えた体を温めていく。
こんな気分なのに、その感覚はホッとして、心地いい…。
バスローブを着てバスルームを出ると、
幸平がルームサービスで頼んだコーヒーが届いたところだった。
「俺もシャワー浴びるから、それ、飲んでろよ。」
そう言うと、幸平は濡れたTシャツを脱ぎながらバスルームに入って行った。
美紗緒は、テーブルの上のコーヒーカップに手を伸ばした。
一口、飲むと、ちゃんと美紗緒の好みの甘さになっていることに気が付く。
こんな時でさえ、幸平の優しさを感じて、美紗緒は泣きたくなった…。
でも、涙は出なかった。
美冴が亡くなったあの日から、美紗緒は一度も泣いたことがなかった。
泣きたくても、涙が出ないのだ。
…昔から、何かあると、美冴の所に行っては泣いていた。
両親に叱られた時…近所の子にいじめられた時…飼っていた猫が死んだ時…。
美冴に慰められながら泣いた…。
美冴がいなくなって、心のどこかが、壊れてしまったままなのかも知れない…。
幸平がシャワーを浴びて出て来ると、
テーブルの上には、美紗緒の使ったカップの他に、
もう一つ、コーヒーの入ったカップがあった。
美紗緒は、黙ってソファーに座ったまま、幸平の方を見ようともしなかった。
幸平は、美佐緒の隣に座り、同じく黙ったままコーヒーを飲んだ。
しばらくして、幸平が口を開いた。
「…中学の時、後輩に、好きな子がいたよ。
同じ委員やってたって事くらいしか接点なかったけど。
でも、何も言えないまま卒業した。何をどう言っていいのか分からなかったしな。
いきなり好きだって言ったって、フラれるだけだろうって思ったし。」
「……。」
「高校に入って、バイトを始めて、
そこで一緒に働くことになった子に告白されて付き合うことになって、
その子の妹に会った時、すげぇびっくりしたよ。
…告白さえ出来なかった、後輩がいたんだから。」
「…それって…」
「もう分かっただろ?…おまえの事だよ。
…もう一度おまえに会って、やっぱり好きだって思った。
美冴に、本当の事を話して、別れようって思った。
だけど、そんな時に美冴が倒れて…。病気の事を知って…言えなかったよ。」
「……。」
「でも、あいつ、全部分かってたんだ。
俺が、本当はおまえを好きだってことも、自分の命がもう永くないって事も…。
そして、おまえが、俺を好きでいてくれた事も。」
「…!!」
「あいつが死ぬ少し前、俺に言ったんだ。」
『私がいなくなったら…美紗緒のこと、お願いね。
…本当は分かってたの。幸平が本当は私じゃなくて、美紗緒の事が好きだって事…。
美紗緒も、幸平のことが好きだってことも…。』
『美冴…!?』
『美紗緒には、つらい思いさせてしまったけれど…。
幸平、私が死んだら、あの子の事、お願いね。
泣き虫でそのくせすごい意地っ張りで、なかなか本当の事を言えない子だけど、
それは、私がいたせいだから…本当のあの子は、素直な、いい子だから。
幸平にそばにいて欲しくて、気づかない振りしてたけど、フェアじゃなかったね。
…自分の命を盾に取るなんて。
美紗緒は…あの子は、私が幸せになりたい気持ちよりももっともっと、
ずっと、幸せになって欲しい子なの。そう思ってたのに、悲しませてしまったけれど…。
あの子は、美紗緒は、私の大事なたった一人の妹だから…。
…お願い、幸平から好きだって言ってあげて…幸せにしてあげて…。』
美紗緒は、何も言えなかった。
美冴の思いの深さに、言葉もなかった。
最後まで自分のことを大切に思ってくれていた美冴に対して、自分は…。
「……わ…私、お姉ちゃんのこと、何にも分かってなかった…。
勝手に誤解して、嫉妬して…!そんな風に思っていてくれたなんて…。
なのに私…私…!」体が震える。
「ごめんな、俺がもっと早くに言っていれば、
おまえをこんなに苦しめることもなかったのに…。」
「違う…こーへいちゃんは悪くないよ…私が…馬鹿だったの…
お姉ちゃんは死ぬ間際まで私のこと心配してくれていたのに、私は…!」
美紗緒の目に、涙が浮かぶ。
涙は頬を伝って、膝の上に置かれた手の上にぱたぱたっと落ちた。
今まで、どんなに泣きたくても、一度も出なかった涙が…。
幸平は、美佐緒を抱きしめた。
「ごめんな、美紗緒。でも、おまえを好きな気持ちは、嘘じゃないから。」
「…うん…ごめんなさい…こーへいちゃん…。」
美紗緒は今まで泣けなかった分の涙まで流すように、泣きつづけた。
長い間抱えつづけた心のつかえが、ようやく取れていくのを、感じる…。
『…幸せになってね…。』
どこかから、そんな声が、聞こえた気がした…。
その夜、美紗緒は、初めて幸平に抱かれた。
今までにも、何度か、そう言う雰囲気になったことはあった。
でも、美紗緒はそれをずっと、拒んで来た。
こわかったから…と言う気持ちもあった。
でも、一番の理由は、幸平がまだ美冴のことを忘れていないと、
自分は美冴の身代わりなんだと思い込んできたから、
そんな気持ちのままで幸平に抱かれても、悲しくなるだけだと思っていたから…。
だから、その一線を越えられないできた。
でも、これからは、もうそんなことは、気にしなくてもいい。
美冴の身代わりではなく、心から幸平が自分を求めてくれていると確信が持てたから…。